旧石川県繊維会館(現西町教育研修館)
1952年、石川県金沢市、谷口吉郎、現存(撮影:2023年)
谷口作品としては勿論、戦後早い時期に建てられた希少な昭和20年代モダニズム建築の優品が現存する。
しかも単なる流行現象的なホワイトボックス建築などではなく、明らかに地域の環境との連続性を意識した独自の新たな造形を試みている。
例えば、屋根を軒の深い瓦の載った切妻屋根としたこともその表れであろう。恐らく、陸屋根がまだまだ防水に問題が生じがちだから避けた、という消極的な理由からではないと思う。
玄関ポーチにあしらわれた亀甲模様は、金沢城などの石垣(一番下の画像)などに良くみられる。休館日だったので見られなかったが内部にもそうしたモチーフが使用されているようである。
旧石川県美術館(現石川県伝統産業工芸館)
1959年、石川県金沢市、谷口吉郎、現存(撮影:2023年)
兼六園に接して建つ。設計した谷口吉郎は金沢の出身で、親の代は九谷焼窯元兼販売の「谷口金陽堂」を営むという家柄であった。(現在、生家跡に谷口吉郎吉生記念金沢建築館が建つ)。
終戦後日本の建築家の多くは、モダニズムと日本の伝統建築や地域性との調和を図ることを目標のひとつとしてきたが、代表格の堀口捨己や吉田五十八を思いつつ、谷口吉郎の建築を見てみるとそうした造形にもそれぞれに個性があるものだ。
さらに北陸出身の建築家と言えば谷口と並んで吉田鉄郎も知られる。両者ともどちらかと言えばストイックでシンプルな造形を得意としたことにまず感慨を覚えたわけだが、それでも各々他の誰の建築にもない個性が生まれているのだから建築とは不思議なものである。
上の画像は同じ敷地にある別棟。「石川県立能楽堂別館」として使用されている。
下の画像は兼六園内に通じる入口。訪れたのが2月だったせいか、ほど良く残る雪が景色に趣きを添えていた。
京都大学基礎物理学研究所湯川記念館
1952年,京都府京都市左京区,森田慶一,現存(撮影:2018年)
「我々は起つ。」
という名高くも声高な出だしで始まる分離派建築会の宣言文を、改めて拾い読みしてみると、分離派は単に過去の歴史様式から「分離」しただけではないことが分かる。
「過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる
新建築圏を創造せんがために」
「新建築圏」の創造―少なくとも何らかの新しい建築を創り出すことをはっきりと目的として謳い、それを生み出す指標は自己が真実と確信するものであったことも窺える。
「過去建築圏内に眠つて居る総てのものを目覚さんために溺れつ
つある総てのものを救はんがために」
これは色々思い浮かぶが、「過去」に目を向け再考する姿勢ではなかろうか。過去は単に一掃される対象ではない。新しい建築の創造は、埋没してしまった何か重要なものを救い上げることが出来るか否かにかかっているのだ、ということであろうか。事実分離派の会員は論考を著し、日本の伝統建築、ギリシャ古典建築あるいは西欧のゴシック建築などを考察した。
こうしてみると、分離派の目的は新しい建築の創造であったことは間違いなく、過去の様式を考察しつつ、個人の建築手法として探究することにあったと言えそうである。
森田慶一の場合、このことははっきりとしている。森田はヴィトルヴィウスの翻訳などギリシャ古典主義を進めつつ、「建築は何か」と問い続けた。そして自らの建築作品もそうした模索の成果としての回答でなければならなかったに違いなかろう。
戦後に竣工した湯川記念館は、柱−梁の構造が強調された端正なプロポーションが美しい建物であり、分離派時代の「構立て」の延長線上にあることを思わせずにはおかない。またフランスへの留学経験と関係があるのだろうか、オーギュスト・ペレへの傾倒を感じさせる。実際森田は「オーギュスト・ペレは、矩形ラーメンが表象する方形のスケールに従ってファサードを構築し・・・」と語り、形式性とロマンチシズムが融合した建築を讃えた。
こうした森田の姿勢ひとつをとってみても、その宣言通り、分離派とは建築家人生を賭けつつ、新しい建築を模索した集団であったことが理解できよう。さらにそのこととある普遍性を帯びた建築言語として(師の伊東忠太の頃から課題とされた)国民的「新様式」との関係についてなど、未だ議論すらされていないことも少なくないように思う。
名曲喫茶ライオン
1950年(1926年創建建物を再建),東京都渋谷区,山寺弥之助(初代店主),現存(撮影2015,2016年)
約半年ご無沙汰してしまいました。忙しい(言い訳)以外に特段どうこうあったわけではないのですが(敢えて言えばinstagramにちょいと浮気してしまったかな)。というわけで再開します。
再開第1号は渋谷の名曲喫茶「ライオン」。上2枚の中世の古城風の画像はどちらかと言えば裏口側のファサード。
さて一般に言う「名曲喫茶」の由来とは何なのか。調べるとどうも戦後1950年代頃に高価だったクラシック音楽のレコードを聴かせてくれる喫茶店と言うこと位しかわからない。ちょうど「歌声喫茶」とか「JAZZ喫茶」も同類だろうか、つまり普通の喫茶店に少し付加価値をつけ皆で音楽の楽しみを共有することが戦後のある時期に流行り始めたようである。最近では名曲喫茶なるものも数少なくなりここは貴重な存在として有名である。
ところでこの「ライオン」に限っては成り立ちの上で他にない特徴がある。というのも、この凝ったデザインは初代の店主山寺弥之助が考案し1926年に建てられた。しかし残念なことに1945(昭和20)年の東京大空襲で焼けてしまうのだが、1950(昭和25)年には戦前と同じデザインで建て直されたのだそうである。つまり戦前昭和初期の喫茶店の姿を、再現された建物とはいえ今日に伝えていると言う意味において貴重な存在であろう。
もう少し詳しく言えば、渋谷「百軒店(ひゃっけんだな)」とは1923年の関東大震災からの復興商店街として開発された地区なのだそうだ。つまり今日この「ライオン」と「千代田稲荷神社」のみが震災復興地区である戦前の百軒店の名残りを伝えているということかもしれない。
百軒店の歴史を伝えるサイト(*1)に以下のように書かれていた。
そもそも「百軒店」(ひゃっけんだな)は、大正12(1923)年の関東大震災直後、復興にともなう渋谷開発計画によって作られた街でした。箱根土地株式会社(西武グループの中心であったコクドの前身)が中川伯爵(旧・豊前岡藩主家)邸の土地を購入し、そこに百貨店のような空間を出現させるというコンセプトのもと、有名店・老舗を被災した下町から誘致したのです。当時としては非常に画期的な手法でした。・・・(*1)
上の写真が入り口のある正面のファサード。看板は「名曲喫茶ライオン」である。
ところで、色々調べたり昔の写真を見てみると、どうも今の建物になる前は初代店主が修行したロンドンのライオンベーカリー直伝の味を伝えるべく店名も「ライオンベーカリー」であったようだ。つまり元々はコーヒーの味が売りの純粋な喫茶店「ライオンベーカリー」が、もしかしたら戦後にはさらにクラシック音楽を聴かせることで有名になり「名曲喫茶ライオン」と称するように変貌していった、ということかもしれない。
外観同様、内部もクラシカルな装飾で満たされ薄暗い中に歴史と重厚さを感じさせる特別な世界が待っていた。どれも初代店主の手になるらしい。内部はまるでオペラ劇場さながらの湾曲した吹き抜け空間があり、その中央の劇場で言えばステージに相当する位置に巨大なスピーカーが鎮座している。(内部は撮影禁止なのでスピーカーの形は最下のイラストから推察して頂きたい)。
そして定期的にレコードコンサートが催されているのだが、頂いたプログラムもまるで本物のクラシック音楽のコンサートで渡されるものを彷彿とさせる素晴らしいイラストで飾られている。
なるほど名曲喫茶とは徹底しているものだと感心した。
ところでプログラムに描かれているライオン自慢のスピーカー「立体再生装置」(下図)は、見れば見るほど今日考えるステレオとはかけ離れた不思議なものである。どうもモノラル全盛時代に、音楽を立体的に聴かせるように工夫したものではなかろうか、と思った。向かって右に大きな低音用のスピーカーがある。つまりオーケストラでは上手(客席から向って右側)にコントラバスなど低音系の楽器が配されることが多いのに対応したようだ。そして恐らくこれは「1対」のスピーカーではなく本質的には「1個」のスピーカーであり、巨大であるがゆえに音に広がりを感じさせる。そういう仕掛けなのかな・・・
などと思いつつ、妙なる調べの流れを、時の流れを忘れて聴き入った。
*1:WEB「渋谷/道玄坂 百軒店商店街」百軒店の歴史 より
横須賀の防火建築帯(三笠ビル)
1959年,神奈川県横須賀市,日本不燃建築研究所(所長:今泉善一),現存(撮影:2014年)
このRC造のビルとなる以前、三笠通り商店街は背後に丘陵を背負う位置に木造の店舗がひしめき合い、もしも一度火災となれば海岸からの風を受けて大惨事となることが心配される状況にあった(*1)。そこで市制50周年の協賛事業の話をきっかけに不燃化の街づくりが開始され、こうした戦艦の威容をも感じさせる大規模な防火建築帯が誕生するに至った。
三笠ビルには他の防火建築帯にはない、立地状況に起因する大きな特徴がある。
元々の三笠商店街は、緩やかに「くの字」状に折れた市道(三笠通り)を挟む両側に商店が立ち並んでいたのだが、不燃化事業においてもその骨格は活かされ、両側の商店街と道路を含む全体が事業対象となった。
具体的に言うと、新しい建物においては4.5mの幅を持つ道(市道としては廃止)のあった場所に沿うようにコンクリート造の屋根が架けられ、中廊下状に「屋内化」した共用の歩廊となった。その両側にRC造の店舗など住戸が並ぶアーケード街が作られたのである。
要するに、一つのビルの中に公道を内包したようなイメージの空間ができあがったと言えばよいのだろうか。しかし車が通る県道と別の「人専用」の道なので、人々はよりショッピングに専念できる環境を手に入れたというわけである。
下の写真(▼)は、このように元々は市道だったアーケードの、現在の姿。
さらに地上階のコンクリートの屋根の真上、すなわち2階にも開店が可能なように共用の歩廊が設けられた(▼下2枚)。しかし実際の現状は地上階の賑わいとは裏腹の別世界。無人の共用空間が不思議な雰囲気を漂わせていた。
元々道路であったことを示す名残りも残っていた。「豊川稲荷」参道へ通ずる曲がり角があった地点には、下の写真のような豊川稲荷参道への出入り口が設けられた(▼)。こうした配慮を見ると、三笠ビルには、単体の商業ビル建築にはない街づくりへの視点が働いていたことが分かる。
石段の参道から三笠ビルの裏側を見下ろす(▼)。県道側のファサードとは雰囲気を異にする、山の斜面ぎりぎりにまで迫った複雑な建物なのである。
三笠ビルには、通りに面した線状の防火帯を作るだけではなく、街区単位で防火仕様とする考え方への萌芽がみられるという(*2)。その他共用の無料休息室、事務室、会議室、電話交換設備、一括共同受電の変電室が設けられ(*2)、区分所有の登記もなされるなど、進化した内容を持つ防火建築帯の共同建築であった。
*1:『不燃都市』(1961 No.6)による
*2:『不燃都市』(1962 No.15)による
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- 収蔵庫・壱號館
- ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
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