収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
林芙美子邸(現・林芙美子記念館)

        

      1941年,東京都新宿区,山口文象,現存(撮影:2016年)

 

 戦前の日本でモダニズムを指向した建築家には、二通りあったように思う。もちろんはっきり分けられるものではないけれど、ひとつは西欧のモダニズムを比較的素直に受入れ根付かせようとした建築家。レーモンドやコルビュジエの弟子前川國男、それからここに挙げた挙げた山口文象もバウハウス帰りの建築家という意味であてはまるかもしれない。
 そしてもう一方は、モダニズムを単に受け入れるだけでなく日本の伝統建築との融合を試みた建築家。堀口捨己、吉田五十八、白井晟一、藤井厚二と結構多い。吉田鉄郎もこちらの仲間かもしれない。

 

 わざわざこういう見方をしたのは、こうすることで林芙美子邸の位置が見えてくるかもしれないと思ったからである。前者の建築家の立場からすれば伝統的和風建築の仕事はあまり表に出したくないなずで、「余技」「建築家のたしなみ」としておくことが多かったようである。山口自身、この建物を建築誌上に発表しなかったそうである。

 

     

 施主の林芙美子は200冊近く参考書を買い入れ京都へ赴くなど住宅造りに執念を燃やしていた。山口は専門家的な立場でアドバイスを行い、施主を立て趣味に沿いつつ設計したようである(特に諸事情を逆手に取り込み、2棟の建屋を中庭を介して配置した山口の構想には巧みさを感ずる)。

 しかしその結果の産物としてのこの住宅は、どこを取っても構成感覚みなぎる住宅であり、モダニズムと身に付いた伝統とが無意識のうちに混然一体となった傑作として見えてくる。こういう和風モダン住宅のあり方もあるのだろう。知らず知らず、後者の堀口や吉田の道を別ルートでアプローチしていた建築と言ったらほめ過ぎか。

 

     

 

 

 

 

 

 内外問わず見られる抽象的な線と面の構成。その意図は「太鼓張り」の障子(▼)からも明らかである。

 

        

 

        

 林の好みによる印度更紗貼りの襖(▼)が艶やか。戦後に堀口が八勝館御幸の間で行ったのを、どうしても思い起こさせる。
 

        

 

 機能に沿って造られたと思われる人研ぎの流し台(▼)は、どことなくシステムキッチン的なものの萌芽を感じさせる。他に水洗トイレなど近代的な設備が完備されていた。注目すべきは使用人室の二段ベッド(▼)。「創宇社」を結成した山口らしさがちらほらと・・。プロレタリアートのための機能的な寝室のようにも見える(この機械的なしつらえは確か列車の二段ベッドがヒントになったとか)。

 

 

 

 アトリエ(▼)は大空間に太鼓張り障子の大採光窓とトップライトを備えた、ドラマチックな木造モダニズムの空間であった。しかしこの部屋だけが各要素をシンメトリーに配した空間であることも少し気にかかる。和室が非対称の面のコンポジションを強調するのに対して洋室のアトリエは左右対称、この「転倒」が何を意味するのか、答えはみつからない。だが少なくとも、山口独特の大胆で潔いモダニズムの造形をここに感じ取ることができる。

 

        

 

     

 

     

 こうして1940年代の物資統制下における、時代の困難を克服して建つ和風モダン住宅が、ほぼ完全な形で残っていて私達の目を楽しませてくれることは、とてもラッキーなことだと感じた。

 

 

 

 

 

| 1940年− | 18:57 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
星薬科大学(旧・星商業学校)

           

1924年,東京都,A・レーモンド,現存(撮影:2016年)

 

今年の春、アントニン・レーモンドの初期の名作である星薬科大(旧星商業学校)の見学会が行われた。壮観な大講堂など高密度の素晴らしい空間を体験することができた。(今回、建物の良さを積極的に知らせてよいとの大学側のご説明があったことから、内部の画像をこうして掲載した。)

 

レーモンドについては既に多くの方がご存じのように、F.L.ライトの下で帝国ホテルの建設のために1919年に来日、そのまま日本に残って独立し事務所を開設し作品を発表し続けた。そして戦時中を除いて長年日本に滞在し、近代建築普及の始祖的な役割を担った建築家である。


この建物がまさしくそうであるように、レーモンドの初期の作品には師匠ライトの個性的な作風の影響から抜け出せない苦悩の跡が残っている。正面のデザインはライト風、裏側の立面は故郷チェコで流行ったキュビズムの作風(▼)となるなど、統一されず二面性を持ったデザインとなっている辺りである。

 

        

 

圧倒的な講堂内部の空間(▼)。全体を貫く主たるモチーフは明らか、星の輝き,光の放射を幾何学化にした空間の造形。

昨今、東京女子大などレーモンドの傑作が失われていく中において、このように完全な形で初期の作品に出会えた幸せをつくづく感じ、奇跡のようでさえある。近代性を指向しつつ19世紀の西欧の香りを漂わせる数少ないホールが大切に使われていることも喜ばしい。

 

        

 

        

 

        

 

    

 

上下移動はすべてスロープによる(▼)。下は正面入り口のホール。広い面積を必要とするスロープが空間の性格を決定している。と言うかスロープ空間がホールそのものと言っても過言ではない状況。(後のコルビュジエの空間との接近は、知らず知らずのことながら、この頃から始まっていたということだろうか・・・)

 

             

 

スロープの途中はギャラリーの如く絵画も飾られている。
日本の神話を思わせるので調べてみると、推古時代の薬草や鹿の角などの採集風景をを描いたものとのこと、馬込文士村の画家数人によって昭和18年に完成したと知る。 (詳しくはこちら)

 

     

 

まさに校舎建築のシンボル性を遺憾なく発揮したのお手本であるばかりでなく、日本の近代建築の重要な証し。末永く維持されるよう祈りつつ、建物を後にした。

 

 

             

 

 

 

 

 

 

| 1920年− | 14:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
【シンポジウムのお知らせ】「分離派」とは何か

「分離派建築会」が結成されたのは1920(大正9)年のこと。もうすぐ分離派が結成されてから100年目を迎える、そうした機会をとらえて、このほど「分離派100年研究会」による連続シンポジウムが開催されることになりました。興味深い内容です。みなさま奮ってご参加くださいませ。

●詳細は下のチラシをご覧ください。

●分離派メンバーの卒業制作の展示もあるようです。

 

          

 

| お知らせ | 17:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
木場 洲崎神社の狛犬

   

気まぐれもいいとこなのですが、久々の「狛犬」シリーズ。しかも20世紀近代の建築とは無縁な江東区木場の洲崎神社に鎮座する激しい形相の狛犬に出会って感じたことなど少々。


そもそも公共の場に置かれたモニュメントにメッセージを託すことは石碑に文字で碑文を刻むことで昔から世界中で行われてきたことは言うまでもない。あるいは造形物でメッセージを遺した例もあったのかもしれない。


そして日本の近代に絞って言えば(かなり強引なもっていき方ですね)、近代彫刻の勃興した1920年代には日名子実三ら彫刻家が旧来の内向きの芸術作品を超え、公共的な場においてメッセージを発する造形パブリックモニュメントとしてのあり方を模索しようと「構造社」を組織した。そういえば、そのさきがけ的作品として日名子が1925年にデザインした関東大震災の慰霊塔「蔵魄塔(ぞうはく)塔」も近くに現存する。

 

       

さて、ご覧の通り、この阿吽の形相の一対の狛犬、特に今にも大きな敵に今にも飛び掛からんと臨戦態勢の狛犬(▲▲(仮に狛犬Aとします))の迫力は凄まじい。もう一頭(▼(狛犬B))もこの飛び掛かろうとする狛犬の視線に合わせて振り向こうとしているかのように見える。

 

そして狛犬というある意味定型化した造形表現の中に、昔から人々の特別な意思や願いを込めることがあったのではないか、というのが今回言いたいことである。

 

     

ちなみにこれら石造の狛犬本体はいつ制作されたのかはっきりしないのだが、明治以前に作られたような古めかしさを感じさせる。ただし台座についてはコンクリート製で塗装が施され、恐らく昭和期以降の修復によるものではなかろうか。

 

はっきり言おう。私が思うにこの狛犬は襲い来る敵である大津波(高潮)に向って飛び掛かろうとしているのであり、津波を倒して市井の人々を護ろうと必死になっている姿に見えるのである。

 

     

 

現在の洲崎神社社殿(▲)は、震災や戦災などで昭和43(1968)年に再建されたものである。

創建は元禄13(1700)年に桂昌院が江戸城中紅葉山の弁財天を遷座した弁天社として成立した。当初は埋め立ても進んでおらず海面に浮かぶ小島の弁天社であったらしい。
しかしその後の寛政3(1791)年の津波(正しくは高潮による海面上昇)によりこの周辺の家屋は流され多数の死者が出るに及んだ。幕府は洲崎弁天社から西側一帯の土地を買い上げ居住禁止区域としここを東北端、平久橋の袂を西南端とした津波警告の碑として寛政6(1794)年「波除碑」(▼)を建立、損傷はあるが現在も文化財として存在する。

 

        

 

        

つまり洲崎神社は昔から津波に対する警告の発信地であり続けている。そうした神社の経緯、狛犬の形相とその視線がまさに東京湾の方向(▼)を向いていることなどからして、津波から護ってほしいという庶民の願いが、いつの時代にかこのような狛犬を生んだのではないかと推測している。

 

もしそれが本当なら、なんと頼もしい狛犬、なんとカッコいい狛犬なのだろう・・・

 

    

 

 

 

 

 

 

| パブリックアート | 16:39 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
名曲喫茶ライオン
     
1950年(1926年創建建物を再建),東京都渋谷区,山寺弥之助(初代店主),現存(撮影2015,2016年)


 約半年ご無沙汰してしまいました。忙しい(言い訳)以外に特段どうこうあったわけではないのですが(敢えて言えばinstagramにちょいと浮気してしまったかな)。というわけで再開します。

 再開第1号は渋谷の名曲喫茶「ライオン」。上2枚の中世の古城風の画像はどちらかと言えば裏口側のファサード。

 さて一般に言う「名曲喫茶」の由来とは何なのか。調べるとどうも戦後1950年代頃に高価だったクラシック音楽のレコードを聴かせてくれる喫茶店と言うこと位しかわからない。ちょうど「歌声喫茶」とか「JAZZ喫茶」も同類だろうか、つまり普通の喫茶店に少し付加価値をつけ皆で音楽の楽しみを共有することが戦後のある時期に流行り始めたようである。最近では名曲喫茶なるものも数少なくなりここは貴重な存在として有名である。


          
 ところでこの「ライオン」に限っては成り立ちの上で他にない特徴がある。というのも、この凝ったデザインは初代の店主山寺弥之助が考案し1926年に建てられた。しかし残念なことに1945(昭和20)年の東京大空襲で焼けてしまうのだが、1950(昭和25)年には戦前と同じデザインで建て直されたのだそうである。つまり戦前昭和初期の喫茶店の姿を、再現された建物とはいえ今日に伝えていると言う意味において貴重な存在であろう。
 もう少し詳しく言えば、渋谷「百軒店(ひゃっけんだな)」とは1923年の関東大震災からの復興商店街として開発された地区なのだそうだ。つまり今日この「ライオン」と「千代田稲荷神社」のみが震災復興地区である戦前の百軒店の名残りを伝えているということかもしれない。
 百軒店の歴史を伝えるサイト(*1)に以下のように書かれていた。

そもそも「百軒店」(ひゃっけんだな)は、大正12(1923)年の関東大震災直後、復興にともなう渋谷開発計画によって作られた街でした。箱根土地株式会社(西武グループの中心であったコクドの前身)が中川伯爵(旧・豊前岡藩主家)邸の土地を購入し、そこに百貨店のような空間を出現させるというコンセプトのもと、有名店・老舗を被災した下町から誘致したのです。当時としては非常に画期的な手法でした。・・・(*1)   


       

 上の写真が入り口のある正面のファサード。看板は「名曲喫茶ライオン」である。
 ところで、色々調べたり昔の写真を見てみると、どうも今の建物になる前は初代店主が修行したロンドンのライオンベーカリー直伝の味を伝えるべく店名も「ライオンベーカリー」であったようだ。つまり元々はコーヒーの味が売りの純粋な喫茶店「ライオンベーカリー」が、もしかしたら戦後にはさらにクラシック音楽を聴かせることで有名になり「名曲喫茶ライオン」と称するように変貌していった、ということかもしれない。


           

 外観同様、内部もクラシカルな装飾で満たされ薄暗い中に歴史と重厚さを感じさせる特別な世界が待っていた。どれも初代店主の手になるらしい。内部はまるでオペラ劇場さながらの湾曲した吹き抜け空間があり、その中央の劇場で言えばステージに相当する位置に巨大なスピーカーが鎮座している。(内部は撮影禁止なのでスピーカーの形は最下のイラストから推察して頂きたい)。

 そして定期的にレコードコンサートが催されているのだが、頂いたプログラムもまるで本物のクラシック音楽のコンサートで渡されるものを彷彿とさせる素晴らしいイラストで飾られている。
 なるほど名曲喫茶とは徹底しているものだと感心した。


           

 ところでプログラムに描かれているライオン自慢のスピーカー「立体再生装置」(下図)は、見れば見るほど今日考えるステレオとはかけ離れた不思議なものである。どうもモノラル全盛時代に、音楽を立体的に聴かせるように工夫したものではなかろうか、と思った。向かって右に大きな低音用のスピーカーがある。つまりオーケストラでは上手(客席から向って右側)にコントラバスなど低音系の楽器が配されることが多いのに対応したようだ。そして恐らくこれは「1対」のスピーカーではなく本質的には「1個」のスピーカーであり、巨大であるがゆえに音に広がりを感じさせる。そういう仕掛けなのかな・・・
 などと思いつつ、妙なる調べの流れを、時の流れを忘れて聴き入った。


          



  *1:WEB「渋谷/道玄坂 百軒店商店街」百軒店の歴史 より



 
| 1950年− | 17:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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