収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
旧東京朝日新聞社・・・計画時のパース2題

最近、分離派建築家のうち石本喜久治について気になっている。特に1922〜23(大正11〜12)年の渡欧外遊前後の資料はないかと思っている。石本氏は帰国後に渡欧の記録を『建築譜』(1924年5月)にまとめドイツの建築動向を解説し、また竹中工務店に所属しながら東京朝日新聞社社屋を設計しており1927(昭和2)年に竣工した。その間いくつかの論文や小規模な建物の設計をしたのは分かっているとしても、今ひとつリアルな側面が見えてこない・・・
そんなことを思いつつ、あちこち調べてみつけた発見報告を2回に分けてご紹介したい。(いつもの建物紹介とは違っていますが悪しからず。また異常な長文、お許しを。)

 

 

    

    建物竣工1927年,東京都千代田区,竹中工務店(石本喜久治),非現存

 

【パース画その1】

まずはこれ(▲)。大正期のアサヒグラフなどに有楽町の東京朝日新聞新築を予告するものが何か出ていないだろうか、と予想して誌面をめくってみたら、本当にあったのでびっくり。絵には正面中央最上部に大きな無線用の鉄塔が鎮座していて2度びっくりした。有楽町の朝日新聞社新社屋の提案時のパースのようである。鉄塔は大阪で設計されたせいなのか、私としては初代通天閣の風情なきにしも非ずといった感じである。1925(大正14)年7月に発行された同誌に2度同じ内容で掲載されていた。


左下には"TAKENAKA KOMUTEN  OSAKA JAPAN"と装飾書体で書かれている。右上にもドイツ語で書かれているが判然としない。

パースを眺めてみると、建物部分については実際に建った建物と比べて向って、当初は左側が少し大きかったことが分かる。しかし竣工した建物と造形上の基本的な違いは感じられない。石本の説明によれば左側の外壁が削られたようにセットバックしているのは市街地建築物法の規制による高さ制限を逆手にとった造形であるとのこと。私には苦しい説明だと思えてしまうのだが、一方で石本は「市街地建築物法への抗議案として」と名付けたミースのガラス摩天楼を模したような模型を、同時期の分離派展に出品している。

大きなマッスにバルコニーや庇がバランスよく張り出すのは竣工建物と同じである。コーナーが曲面であるなどやはりメンデルゾーンの影響とりわけベルリナー・ターゲブラット新聞社屋の参照が濃厚だろうか。特に地階右側の窓はメンデルゾーンの帽子工場を思わせる。比較のため竣工時の建物画像(『建築世界』1927.5より)を下に載せてみる(▼)。

 

このパース画は元々着彩画であったようである。(理由はレタリング文字の不明瞭さ。文字と背景とを異なる色相で表現したためではないか)竣工建物の外壁は3階から上と下を境に黄色と青緑色で塗り分けられていたそうだが、外壁塗り分けのアイデアはこのパースの段階で提案されていたことが分かる。カラーで見たかったものだ。こうしたポリクロミーの派手な塗り分けを自作に応用したのは、ドイツ マグデブルクで見た町並みが関係するのかもしれない。

 

因みに分離派の会員特に瀧澤真弓は、震災直後の今和次郎らバラック装飾社のペンキ装飾を批判していたが、しかし石本だけは「所謂バラツク芸術の出現に当面して非常な感激を受けつゝあるのである(*1)」と肯定的であった。それは恐らく実際に大元のマグデブルクで見た塗装外壁を「馬鹿々々しくも滑稽には違いないが、今の彼等にとつては実に止むに止まれぬ生命の強力的な爆裂(*2)」とし、大戦で疲弊しつつも放つ表現主義の光に対して、実見の上敢えて理解を示すことができたからなのかもしれない。そして自ら「Vagabond(放浪者)」(*1)と吐露したように、それ以降も合理主義的で純粋な芸術としての建築を目指す建築家石本と、一方で装飾に魅せられた石本とをひとりの人間の中に併せ持ちさまよう。(その詳細は次回)

 

話をパース画に戻そう。外壁各階の窓の窓台のレベルにはすべて細い帯状の水平ラインで結ばれており、何列もの水平線で水平性が強調されていた。水平ラインの意味については、『東京朝日新聞小観』の中で、一般向けではあるが意匠上の説明(恐らく設計者石本が書いた説明に間違いなかろう)でも以下のように述べられている。大戦後とはもちろん第一次世界大戦のことであり、文章の背後にヨーロッパに自ら赴いた者としての自信が感じられる。

「窓の窓台がそれぞれ水平線によつて結ばれていることは、大戦後に於けるヨーロッパの諸建築でもさうである様に、一つの安定した静かな気持を社会感情として各人が抱くことを表現せしめたのである。(*3)」

だがどういう事情によるのか、その水平ラインは下(▼)の実際に建った建物では、中層まででストップしており半楕円窓の部分には付けられなかった。

          

 

パース画の無線鉄塔について注意して見るべきは、大きさを強調するためにその部分だけ透視図法を無視し立面を貼りこむように描かれていることであろう。図法に沿って描いたら鉄塔は足元部分が見えず奥に小さく見えるだけになってしまう。つまり目立たせたかったようである。

そしてこれは蛇足だが、鉄塔には螺旋階段が描かれているのが見える。そのせいか、戦後の山田守による東海大校舎を思い起こした。


パース画に付された説明文には「昨年末京橋数寄屋橋畔千三十坪の地に新社屋を建設することとなり・・・」とある。「昨年末」とは1924(大正13)年末であり、他の記録によれば起工は1925(大正14)3月である。そこで設計時期を推定してみるならば、新築決定の1924年末から翌年3月の起工までの間では設計期間が少なすぎるので、やはり1924(大正13)年前半には設計が開始されていたのではなかろうか。伝説として伝わる社内コンペもその頃行われたのだろう。それはちょうど『建築譜』が刊行された頃、つまり渡欧の余韻がまだ残る時期にあたる。恐らく「昨年末」(1924年末)に決定された内容とは、設計案の承認かあるいは請負契約の締結を指すのではないだろうか、と推測する。

 

次に、1926(大正15)年1月の分離派第5回展出品の公開済の各面連続の立面図を見てみたい(▼)。これは工事のための実施設計図とみられ、この図の段階では既に大無線鉄塔は消えている。つまり最初のパースから次の段階に至って無線塔のデザインは保留状態になったらしいことが読み取れる。正面から見て左のセットバック部は実際に建った建物と同じになった。この段階では各階窓の水平ラインは石本の意図通り、最上段まできっちり描き込まれているので、中層階で終わってしまったのは現場での変更だったことがわかる。

 

      

 

【パース画その2】

さて、もうひとつ下は写真絵葉書に描かれてたもうひとつの外観パース(▼)をご紹介したい。これは先日ネットオークションでみつけて安く手に入れたもの。
こちらは、無線鉄塔は竣工時のものと同様のデザインがなされ、屋上階段室の上部に細長く突き出すように取り付けられた。玄関正面を避け構成主義的な造形に組み入れられている。やはり断然モダンでスマートである。
 

    

屋上階段室や無線鉄塔の設計に関しては、『東京朝日新聞小観』において以下のように正面から側面の階段室上部に移った試行の経緯が、そのまま造形上の説明として語られている。

「・・・これにも相当の考慮が払われている。この建物が水平線に延びんとする外郭を有するに当って、これに垂直な高塔が建物の正面の狭い面に垂直にあることは、建物全体としての釣合ひをとる上から言つても余り面白くないので、殊更に正面を避けた側面に持つて行つて、川に面する側の大きな面、中央の面、他の側の低い面との釣合をとる様にしたものである。(*3)」

また窓台の水平ラインについてはこのパース画においても立面図同様最上段まで描かれている。従って恐らくこの絵葉書のパースも、大切なデザインのポイントである水平ラインを全て盛り込んであることから、石本氏が描いたものであろうと思われる。さらにパースのタッチは白木屋などその後の石本作品のタッチにも似通っている。

 

そのようなわけで、他にも気になる点があるのだが、あまりに長くなってしまったので、そろそろこの辺で・・・・。

 

   *1:『建築譜』 より(石本喜久治 1924)

   *2:『分離派建築会作品 第三』所収「タウト一派の傾向価値」より(石本喜久治 1924) 

   *3:『東京朝日新聞小観』  「二 新社屋の設計」より(1927 東京朝日新聞発行所)

 

 

 

| 1920年− | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
昭和第一高等学校(旧・昭和第一商業学校)増築部

  

   

 

       

    1937年,東京都文京区,石本喜久治,現存(撮影:2016年)

 

上の画像(▲▲)が現状、上から2番目の画像(▲)は竣工時。
外堀通り沿いに見えるややゴシック風の既存棟(▼)の裏手の同敷地内にモダニズムの棟が増築されていて、それは戦前の石本建築事務所の設計によることが判った。比較して分かるように現在の道路側外壁面には煉瓦色のタイルが貼られ、屋上のパーゴラ風のフレームは取り去られている。(既存建物とは別棟ではあるが、ここでは当時の図面タイトルに合わせて「増築」と称した)


石本建築事務所の『50年の軌跡』巻末の作品年表を見ると「昭和第一商業学校」との記載があり、そのことが以前から気になっていた。そしてつい最近、石本事務所に行って調べる機会があり同事務所で増築工事を担当していたことが判明、海老原一郎の押印のある図面や竣工アルバムが残っているのを見出した。そして了解を得てここに掲載した次第。

 

                   

 

戦前期に石本喜久治が設計した作品は、数が多いにもかかわらず商業系の建物が多かったためか現存建築物は少ない。残っている建物を挙げると、以前取り上げた「旧・白木屋大塚分店(現・大塚ビル)」が外壁表面を金属パネルで覆われつつ残っている他、横須賀の「旧・海仁会病院(現・聖ヨゼフ病院)」は立原道造が計画に関与した建物でもありドコモモの認定建築となっている。他に石本の卒業設計「涙凝れり」の実施版を思わせるコンクリート造の石本家の墓標が大阪にある、といったところであろうか。数年前に解体された芦屋の松橋邸は密度の濃い戦前モダニズム住宅であり、しかも家具、照明器具からカーペットまでアールデコ装飾でデザインされた石本らしさがほぼそのまま残る作品であっただけに大変惜しまれた。


そうした現存状況から考えると、この現昭和第一高校の増設棟は必ずしも凝った作品とは言えないかもしれないが、数少ない現存建物として貴重であろう。特に正面ペントハウスの「塔」が残っていたことは喜ばしい限り。

 

    

 

 

    

 

(上の画像は建物裏側の現状(▲▲)、そしてモノクロ画像(▲)は竣工時のもの。一部再増築されたのがわかる)

 

石本作品の特徴として、戦前のビル建築のには必ずと言ってよいほど「塔」あるいは「搭状のペントハウス」が付いている。どうも旧朝日新聞社屋や日本橋の白木屋以降そうした傾向が続いたようである。

そのようなわけでこの現・昭和第一高等学校においても、見ての通り屋上中央に塔状のペントハウスが残っている。しかも1930年代の石本建築に見られるやや新古典主義風の特徴がここでも示されている。

 

屋上から下をモダニズムのデザインとし、屋上から上の屋根部分を時代状況に合わせ、あるいは施主の好みに合わせて造形上の操作を加えるのは、1930年代以降の民間設計事務所にとって生き残るに必要な道であったのか、と思わずにいられない。あの分離派の闘将石本喜久治でさえも。

 

 

 

 

 

| 1930年− | 11:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
林芙美子邸(現・林芙美子記念館)

        

      1941年,東京都新宿区,山口文象,現存(撮影:2016年)

 

 戦前の日本でモダニズムを指向した建築家には、二通りあったように思う。もちろんはっきり分けられるものではないけれど、ひとつは西欧のモダニズムを比較的素直に受入れ根付かせようとした建築家。レーモンドやコルビュジエの弟子前川國男、それからここに挙げた挙げた山口文象もバウハウス帰りの建築家という意味であてはまるかもしれない。
 そしてもう一方は、モダニズムを単に受け入れるだけでなく日本の伝統建築との融合を試みた建築家。堀口捨己、吉田五十八、白井晟一、藤井厚二と結構多い。吉田鉄郎もこちらの仲間かもしれない。

 

 わざわざこういう見方をしたのは、こうすることで林芙美子邸の位置が見えてくるかもしれないと思ったからである。前者の建築家の立場からすれば伝統的和風建築の仕事はあまり表に出したくないなずで、「余技」「建築家のたしなみ」としておくことが多かったようである。山口自身、この建物を建築誌上に発表しなかったそうである。

 

     

 施主の林芙美子は200冊近く参考書を買い入れ京都へ赴くなど住宅造りに執念を燃やしていた。山口は専門家的な立場でアドバイスを行い、施主を立て趣味に沿いつつ設計したようである(特に諸事情を逆手に取り込み、2棟の建屋を中庭を介して配置した山口の構想には巧みさを感ずる)。

 しかしその結果の産物としてのこの住宅は、どこを取っても構成感覚みなぎる住宅であり、モダニズムと身に付いた伝統とが無意識のうちに混然一体となった傑作として見えてくる。こういう和風モダン住宅のあり方もあるのだろう。知らず知らず、後者の堀口や吉田の道を別ルートでアプローチしていた建築と言ったらほめ過ぎか。

 

     

 

 

 

 

 

 内外問わず見られる抽象的な線と面の構成。その意図は「太鼓張り」の障子(▼)からも明らかである。

 

        

 

        

 林の好みによる印度更紗貼りの襖(▼)が艶やか。戦後に堀口が八勝館御幸の間で行ったのを、どうしても思い起こさせる。
 

        

 

 機能に沿って造られたと思われる人研ぎの流し台(▼)は、どことなくシステムキッチン的なものの萌芽を感じさせる。他に水洗トイレなど近代的な設備が完備されていた。注目すべきは使用人室の二段ベッド(▼)。「創宇社」を結成した山口らしさがちらほらと・・。プロレタリアートのための機能的な寝室のようにも見える(この機械的なしつらえは確か列車の二段ベッドがヒントになったとか)。

 

 

 

 アトリエ(▼)は大空間に太鼓張り障子の大採光窓とトップライトを備えた、ドラマチックな木造モダニズムの空間であった。しかしこの部屋だけが各要素をシンメトリーに配した空間であることも少し気にかかる。和室が非対称の面のコンポジションを強調するのに対して洋室のアトリエは左右対称、この「転倒」が何を意味するのか、答えはみつからない。だが少なくとも、山口独特の大胆で潔いモダニズムの造形をここに感じ取ることができる。

 

        

 

     

 

     

 こうして1940年代の物資統制下における、時代の困難を克服して建つ和風モダン住宅が、ほぼ完全な形で残っていて私達の目を楽しませてくれることは、とてもラッキーなことだと感じた。

 

 

 

 

 

| 1940年− | 18:57 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
星薬科大学(旧・星商業学校)

           

1924年,東京都,A・レーモンド,現存(撮影:2016年)

 

今年の春、アントニン・レーモンドの初期の名作である星薬科大(旧星商業学校)の見学会が行われた。壮観な大講堂など高密度の素晴らしい空間を体験することができた。(今回、建物の良さを積極的に知らせてよいとの大学側のご説明があったことから、内部の画像をこうして掲載した。)

 

レーモンドについては既に多くの方がご存じのように、F.L.ライトの下で帝国ホテルの建設のために1919年に来日、そのまま日本に残って独立し事務所を開設し作品を発表し続けた。そして戦時中を除いて長年日本に滞在し、近代建築普及の始祖的な役割を担った建築家である。


この建物がまさしくそうであるように、レーモンドの初期の作品には師匠ライトの個性的な作風の影響から抜け出せない苦悩の跡が残っている。正面のデザインはライト風、裏側の立面は故郷チェコで流行ったキュビズムの作風(▼)となるなど、統一されず二面性を持ったデザインとなっている辺りである。

 

        

 

圧倒的な講堂内部の空間(▼)。全体を貫く主たるモチーフは明らか、星の輝き,光の放射を幾何学化にした空間の造形。

昨今、東京女子大などレーモンドの傑作が失われていく中において、このように完全な形で初期の作品に出会えた幸せをつくづく感じ、奇跡のようでさえある。近代性を指向しつつ19世紀の西欧の香りを漂わせる数少ないホールが大切に使われていることも喜ばしい。

 

        

 

        

 

        

 

    

 

上下移動はすべてスロープによる(▼)。下は正面入り口のホール。広い面積を必要とするスロープが空間の性格を決定している。と言うかスロープ空間がホールそのものと言っても過言ではない状況。(後のコルビュジエの空間との接近は、知らず知らずのことながら、この頃から始まっていたということだろうか・・・)

 

             

 

スロープの途中はギャラリーの如く絵画も飾られている。
日本の神話を思わせるので調べてみると、推古時代の薬草や鹿の角などの採集風景をを描いたものとのこと、馬込文士村の画家数人によって昭和18年に完成したと知る。 (詳しくはこちら)

 

     

 

まさに校舎建築のシンボル性を遺憾なく発揮したのお手本であるばかりでなく、日本の近代建築の重要な証し。末永く維持されるよう祈りつつ、建物を後にした。

 

 

             

 

 

 

 

 

 

| 1920年− | 14:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
【シンポジウムのお知らせ】「分離派」とは何か

「分離派建築会」が結成されたのは1920(大正9)年のこと。もうすぐ分離派が結成されてから100年目を迎える、そうした機会をとらえて、このほど「分離派100年研究会」による連続シンポジウムが開催されることになりました。興味深い内容です。みなさま奮ってご参加くださいませ。

●詳細は下のチラシをご覧ください。

●分離派メンバーの卒業制作の展示もあるようです。

 

          

 

| お知らせ | 17:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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