収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
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旧第一金庫本店

1925年,東京都新宿区,設計不詳,現存(撮影:2014年)

 戦前の建物が急速に姿を消しつつある中で、さらにこのような大正時代の香りを濃厚に漂わせる建物が現役で使われているのを見ると、嬉しさと敬意が同時に込み上げてくる。現在は「ビストロかがり火」という料理店となっている。

 同店の前身「浪漫亭」のHPには建物の沿革も記されていた。それによると1925(大正14)年に建てられたらしく、関東大震災後の復興期の遺構という見方もできようか。震災直後は「バラック装飾社」などをはじめとした芸術家の活動により、斬新なファサードデザインが残骸だらけの街並みに活気を与えていたのだが、そうした歴史を彷彿とさせるに十分なユニークな外観である。 
 また今や周囲の高層建築と比べてスケール的にアンバランスとなりながらも、ひとり健気に昔の街並みスケールの実像を伝える貴重な生き証人のようでもあった。

    

 残念ながら設計者などどうも分からないが、ブログ(あれやこれやの近代建築)が『第一金庫発達史−逞しき戦ひの二十年』と題された戦前の社史を紹介されているのをみつけた。近代デジタルライブラリーの中で公開されている本であり、その中で唯一建物情報として載っていたのが下の1枚の建物のモノクロ画像であった。

    



        




 
| 1920年− | 16:53 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・門司郵便局電話課庁舎(門司電気通信レトロ館)

1924年,福岡県北九州市門司区,逓信省営繕課(山田守),現存(撮影:1993年)

 逓信省営繕課勤務時代の山田守の設計による局舎建築。山田が担当した現存建物としては恐らく最も古い事例であり、つまり分離派として血気盛んなスタートを切った若き山田のエネルギーを、よく伝える建物であるように思う。



 竣工当時つまり大正時代末の逓信省営繕課内部では、電話網の拡張事業によって多数の電話局舎の設置が急がれていた。そんな中でデザインの質を確保するために標準化の縛りがかけられていた。例えば外観については、縦長窓に付け柱を配して様式建築としての威厳を必要最小限確保するようなものであった。また防火仕様として「内田式流水防火装置」なる装備が必須とされた。これは火災時に最上階の外壁窓上枠から水が最下階まで流れ落ちるしくみであり、営繕課長内田四郎の特許によるものであった。

 結局のところこうした標準化は、何の新味もないデザインを大量生産しようとするものであり、この守旧的な上司の発想は山田守ら若手技師の創造意欲を阻む障害以外の何物でもなかった。若い技師たちはそこからすり抜けるためにあれやこれや策を練ったといわれている。山田守からすれば分離派の信念に従い、まさに過去の様式性を加えただけでお茶を濁すような非創造的な設計姿勢をどうにか打破したいところであった。もっと言えば、様式性を排除したシンプルな外観とした上で、さらに自己のこだわりである曲面による流動的な造形をなんとか実現したいところであった。





 さてこの門司の局舎に目を向けると、若き山田が上司に対抗して創造性を発揮しようとした跡が垣間見える。
 まず連続した折れ線アーチや人面のような玄関装飾。これらの要素自体は山田以外の技師による局舎でも既に用いられていたもののようである。つまり既成事実となった上司の許可が得られそうなモチーフを選び、それらを山田が狙ったシンプルでモダンなイメージに捉え直して外観デザインに適用したのではないかと思われる。



 次に、窓の下枠窓台部分である。このお饅頭のように大きいなパーツには恐れ入った。先述の内田式防火装置を用いる場合に限っては(通常なら下枠部分は水切りの機能を持つべきなのだが、全く正反対に)水が外壁を伝って流れるような滑らかな断面形状になっていなければならないとされていた。つまり曲面形状の下枠で水が伝わり易くなっていなければ上司のOKがもらえない。そこでこのことを逆手にとり、曲面に対して偏愛的なまでのこだわりを持つ山田は、ここぞとばかりに曲面状の滑らかで大きな窓台を設計したのではないだろうか。そんな逓信省の製図室の光景が目に浮かぶ。

 その他、裏側を見ると、曲面状にオーバーハングした部分があり(上画像)、戦後の一連の病院や山田自邸などにみられるガラスシリンダー状空間の予兆を既に感じさせる。
 つまり、ここ門司にある最初期の山田守の作品には、生涯通して変わらなかった造形指向が既に見られるのである。








 
| 1920年− | 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
久保山墓地納骨堂

            
          1925年,神奈川県横浜市,山本外三郎,現存(撮影:2012年)


 約20年ぶりに再訪した。あの時は半信半疑で『建築新潮』の掲載ページ(最下の画像)と久保山墓地の名を手掛かりに探し歩いたのだった。そして初めて納骨堂の前に行き着いたとき、写真通りの威厳を保ちつつ現実に聳えている姿に感動し、感慨で言葉も無かったのを覚えている。

 霞橋(前項)から坂を上り20分ほど歩いたら、久保山墓地の最奥で今回も以前とほぼ変わらぬ姿に出会った。メンデルゾーンの建築を彷彿とさせる3D曲面の外壁は、こう言っては不謹慎かもしれないがよく出来ている。一点だけ人造石洗い出しの表面が一部剥がれていたのが気になった。建築当初の写真と見比べると入口部分の庇が変化しているのは、過去にここだけ破損し作り直されたということであろう。
                      
           
           

 この納骨堂は無縁仏の遺骨を納めるためのものであり1925(大正14)年に建てられた。およそ以下のような内容の設計者山本外三郎の解説から、その内部空間もある程度想像できる(*1)
 内部は6段の棚が3方にしつらえられ遺骨が積み重ねられており、嵌めこまれたステンドグラスの効果で純白のプラスター塗りの空間が淡緑色の光で彩られ、陰もまた澄んだ淡紫色である、とのことである。 外観の造形については特に触れられてはいない。ただしドーム部分の仕上げ材は「銀灰色のストーンテックス」、下部は「褐色味を帯びた人造石洗い出し」とあるので、当初はツートンカラーだったのかもしれない。

 「私はこの納骨堂の設計をする時、うしろ寒いやうな一寸云うに云われぬ森厳な感動を受けながら鉛筆や定規を動かさねばならなかったことを告白します」 (*1)
 
 設計者は、引き取り手もなく苦難を背負いつつ生涯を終えた者に思いを馳せ、厳粛な気持ちを得たことを吐露した。そして、ここへたどり着いた死者だけに許される贅沢な安住の空間を用意したのである。生きる者の踏み込み得ない封印された場所として。私はここに、大正期独特のロマンチシズムに根ざした建築の発想を見る思いがした。

                                     
                   「建築新潮」(1925年4号)口絵


     *1:「建築新潮」(1925年4号)「久保山納骨堂に就て」山本外三郎




 

| 1920年− | 20:48 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
万国橋ビル


1928年,横浜市中区,設計者不詳,非現存(撮影:2012年10月)

 海岸近くの横浜の北仲通地区では再開発が進行中であり、万国橋ビルのような歴史を感じさせる建物についてもその扱いが検討されていた。しかしここへ来て解体されるとの情報を得るに及び、しかも残された時間もないようなので急きょ出掛けてみることに。10月末のことであった。
 訪れてからほどなくして囲いで覆われたらしく、上には「解体中」と記したもののどうなっていることか・・・ 

     

 その名が示すように万国橋のたもとに建つこの戦前に建てられたオフィスビルは、ことさら際立ったデザインをまとっているわけではないけれど、その端整な外観は、古き良き横浜の街並みの雰囲気を想像させるのに十分な風格と情感とを備えているように思う。
 建物は道路面よりさらに下のレベルまである。橋から見下ろすと、最下層部の荷揚げ口と思しきものが古い石垣の護岸に接しており、つまり船から建物にアプローチも可能だったように見える。

 建物の竣工は1928(昭和3)年とのことなので、現在ある万国橋(昭和15年建立)よりも古い。当初はもっと違った風景が広がっていたそうである。        

        

 エントランスには品よく控え目にアールデコ調の装飾が施されていた。外装は、下の写真に見られるような剥落痕からして、タイル貼りの外壁であったようである。

 






 

| 1920年− | 21:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
上野労働相談所

 
1925年,東京都台東区,下谷兵事会,非現存(撮影:1992年頃)

 かつて上野駅の東口に建っていたRC3階建ての建物。上記のデータは『日本近代建築総覧』の内容に倣っているのだが、特にその備考に記されている「S.14年以前は市民食堂」との文言が気にかかった。
 それと言うのもここに記された「市民食堂」とは、大正期以降に設置された東京市営の「公衆食堂」(あるいは「市設食堂」とも称される)のことを指すのではないか、と思ったからである。現存する公衆食堂の建物としては、丸窓が印象的な旧・東京市深川食堂(昭和7(1932)年竣工)が知られ、「深川東京モダン館」としてリニューアル、活用されている。

 公衆食堂とは、大正7(1918)年に富山県で起こった米騒動が引き金となり、その影響がもたらした物価高騰と市民の生活苦に対処するために、東京市が社会政策の一環としてが経営をはじめた食堂である。市内に合計16か所設置され、定食は10〜15銭,カレーライス15銭,コーヒーが5銭であった(*2)。

 そのうちのひとつ上野公衆食堂は、大正9(1920)年という初期に設置された部類の食堂である。所在地は旧住所で「下谷区車坂町25」とある(*1)。この建物の立地と重なるので、おそらくこの建物が旧・上野公衆食堂であったとみて間違いなさそうだ。
 市内の食堂は店によって利用頻度に差が生じて、閉鎖に追い込まれる食堂もあったらしい。上野食堂も何らかの理由で食堂の役目を終え、変転を経て最終的に労働相談所として利用されるようになったようである。

 公衆食堂は、関東大震災以後の復興事業として大正14年に10か所が建設されたという情報もあり、また上野食堂については昭和5年に新設されたとの情報もみられる(*2)。もしや建物はこうした時期のいずれかを節目に、当初の建物からRC造に建て替えられたのであろうか。
 建物の設計が「下谷兵事会」とあるが、これがどういうことなのかは判らず、謎のままである。
 なお、上記の内容と同様の推測が、ブログ「ぼくの近代建築コレクション」の中で既になされている。
 今や推理の範囲でを出ないとはいえ、公衆食堂の歴史を証す建物のひとつが既に失われてしまったことは、大変残念である。


  *1:『下町文化』No.247(市民の食生活を支えた市設食堂) 参照
  *2:
ブログ 宮沢賢治の詩の世界」(大正期東京市の「公衆食堂」) 参照


| 1920年− | 22:38 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・田中家住宅
 
1923年,埼玉県川口市,櫻井忍夫,現存(撮影:2012年)

 近場に建築の佳品はないものかと思案したところ、数年前に川口市が取得した旧・田中家住宅を思い出した。現在は公開され「川口市文化財センター分館」としても市民に広く利用されている。
 田中家は江戸時代末期から続く麦味噌醸造業と材木商により発展を遂げ、4代目田中兵衛によりこの邸宅を建設に着手、1923(大正12)年に竣工した。関東大震災の起こった年の竣工でありしかも煉瓦を多用した建物であるにもかかわらず、地震の影響を微塵も感じさせることなくどっしりと聳え立っている。
 洋館が完成した後の昭和9年には和館が増築され(一番下の画像)、また茶室や回遊式庭園も設けられた。ちょうど兵衛が貴族院議員として政界に進出した時期にあたり、多くの賓客をもてなす必要があったことによる、そのようなことがリーフレットに書かれていた。
 洋館部分の間取りは、1階が商家らしい帳場と応接室、2階は落ち着いた書斎と座敷、そして最上階3階の見晴らしを備えた豪華な大広間に行き着く、という構成である。
 洋館の中に楼閣的な要素が若干意識されているように思えて興味深い。素封家の邸宅ならではの特徴だろうか。

 設計者櫻井忍夫(1863-1926)についての詳しい説明が、建物内部にパネルによって掲示されていたので、そこからいくつか要点を拾い上げておきたい。
 櫻井は1891(明治24)年に上京、工部大学校造家学科の第1期生であるあの佐立七次郎の事務所に入所し「東京株式取引所」(1896)などに携わった。佐立のもとを離れた後、三菱合資会社や東京電気鉄道株式会社、東京倉庫株式会社などを歴任、現存する「小岩井農場本部事務所(旧岩崎農場事務所)」にも関与したと記されている。そして1921(大正10)年に事務所を開設し独立、この田中兵衛邸などを設計した、とのこと。
          
 まず川口で佐立七次郎の弟子筋の作品に出会おうとは思いもよらず、驚いた。この建築でまず目にする外装のデザインについて、私は堅い歴史様式から一歩踏み出し微妙にアールヌーヴォー寄りの雰囲気を匂わせた個性的なデザインと見たのだが、それも破綻もなく上手にまとめられている。(それとなく「」の文字も装飾の一部として随所にあしらわれていた)なるほど本格的な修練を経た設計者の手にかかった思えば納得なのである。
             
| 1920年− | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
地下鉄ビル
 
1929年,東京都台東区,東京地下鉄道工務課,非現存(撮影:2003年)

 昭和2年に地下鉄浅草−上野間で開通し、地下鉄浅草駅の上に立ち食堂と展望施設からなる地上6階地下1階建ての地下鉄ビルは昭和4年に開業した。地下階から地下鉄乗り場に通じていた。
 当初、建物頂部には尖塔と旗がなびき、外壁面は斜めストライプなどの派手な装飾模で覆われていたようだが、写真のようにそれらはいずれも失われている。ある日、ペントハウス部分にわずかに旧状をとどめた地下鉄ビル建物を見つけ、撮っておいたのがこの写真である(以前はペントハウス部分は看板の裏に隠れていたのではないかと思う)。
 昭和の初期、川端康成の小説『浅草紅團』の中でもこの地下鉄ビルのことが取り上げられたことなどから、庶民感覚にとっていかに物珍しくハイカラで人気の高い建築であったのかがわかる。
 この建築は失われたが、近くでは「東京スカイツリー」が開業し、すぐそばに「浅草文化観光センター」が竣工したりの昨今、衆目を集める斬新さを発信する土地柄は今なお健在のようである。




| 1920年− | 20:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
川崎河港水門

1928年,神奈川県川崎市,内務省(金森誠之),現存(撮影:2012年)


             

 多摩川から東京湾にかけて現在の川崎区を縦貫する運河計画が持ち上がったのは、第一次世界大戦後の好景気を迎えた時期のことであった。さらなる工場敷地の開発が求められたことによる。その運河の多摩川側の入口がこの河港水門であり1926(大正15)年に起工、1928(昭和3)年に竣工した。現在も砂利の陸揚げに使用されている。設計は内務省技師多摩川改修事務所長の金森誠之であった。河川改修及び水門建設については、金森の働きかけで近接する現・味の素蠅工事費の一部を負担したことが実現に大きく寄与した。

 運河計画の具体案は縦横にめぐらされた大運河計画に発展、1935(昭和10)年に国の認可を得て都市計画決定された。しかし建築制限を設けられず予定地に工場や住宅が建ってしまう。さらに戦時体制への突入が影響したため昭和18年に計画は廃止の憂き目をみた。されどこの幻の大運河計画の片鱗は、河港水門付近の他、池上、桜堀、夜光、末広運河に垣間見られ、全くの机上の空論に終始したわけでもなかったようである。(*1)

 水門は運河計画において、その実現された最も象徴的なモニュメントとして残る。また、およそ従来の土木構築物にみられなかったそのユニークなデザインは、金森の主導があってこそ達成されたに違いない。
 頂部には籠に盛られた梨や葡萄,桃が直裁にかたどられたオブジェとして載り、これら当時の川崎
の名産品をもって水運がもたらす豊かな実りを象徴化したものと解釈できる。
 また、2本の塔にはフルーティング(縦ミゾ)の装飾が施され、梁の部分については当初(今は無いが)エジプトの船のレリーフがあしらわれていた。恐らくエジプトの神殿風イメージを意識したと思われるがその意味合いや参照元などは謎のままである。

 設計者金森誠之の多才ぶりについては六郷水門の項で触れたが、川崎河港水門については『土木建築工事画報』昭和3年7月号,8月号に掲載された図面と金森の撮影フィルムのスチル写真から、工事から竣工式の様子までを伺うことができる。多摩川の岸壁を金森式鉄筋煉瓦で被うべく施工される状況、エジプト船レリーフも図面や実物写真から見てとられる。竣工式の余興では、水門の橋上を舞台とし松竹キネマスター田中絹代や浪花友子らによる鶴亀の舞が演じられた。まさに日本の工業発展の桧舞台であることを内外に強く印象付けようとしているかの如く。
 

     

                 

                 

*1:『東京再発見―土木遺産は語る―』(伊東孝 岩波新書 1993)参照。


| 1920年− | 20:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
九段下ビル(旧・今川小路共同建築)
 
1927年,東京都千代田区,南省吾,現存(上1枚のみ2009年撮影,その他2011年12月撮影)

 関東大震災からの復興、すなわち耐震化・不燃化建築の普及を図るために1926年に復興建築助成株式会社が設立された。しかしそこで企画された「共同建築」の貴重な実例がもうすぐ消え去ろうとしている。

 旧・今川小路共同建築の設計者南省吾の言葉によれば「共同建築」とは以下のような建築とのこと。「共同建築と云ふのは、手取り早く云えば、隣り合つて居る幾つかの敷地の人々が、各別々に家を建てる代わりに、共同して一構の家を建て、土地を経済的に利用し且つ建築費を節約し様と云ふのである。最も簡単な、例は在来の長屋式の建物と同様。相隣る二つの家屋の隣界壁を、相互負擔(たん)の下に計畫せられた建物で二つ又は二つ以上連結したるものである。」(*1)
 かつて今川小路では、通り沿いの居住者達がそれぞれ資金を出し合い所有地を繋いで鉄筋コンクリートの一棟の長屋的な建物を建てた。ひとつの復興の形である。

 後に九段下ビルと呼ばれることになった建物の外観を一見したところ、ネット越しに見えるのはデザインが統一された1棟の建物に過ぎないかのようである。しかし実際は区分所有された建物の集合であり、これが建つ従前の敷地状況や出資割合などを色濃く反映したプランに基づいている(*2)。
 各区分の間口すなわち界壁の間隔も微妙に異なりつつ繰り返されているのは、街路側からもなんとなく感じられた。他の一般的な建物のように漫然と同じスパンで同じデザインが反復されるのと違い、ここでは外観にもプランニングの微妙な変化をひきずって画一化された建物とは異なる魅力を街路に与えているようでもある。今日的な見方ではあるが『土木工事画報』(1928,11号)掲載のファサードを見ると活気に満ちた変化に富んだものであった様子が分る。

 ただしこうしたエラく手の込んだ計画手法によるところ、他にも旧・伊勢崎町共同建築(*3)などのように実現をみたのはせいぜい2〜3名の施主による共同建築であったようだ(*4)。この旧・今川小路共同建築という8名からなる建物は異例の大規模な建物であり、そして勿論、復興建築助成株式会社による代表例として雑誌にも取り上げられた。

             ***


 さて、今川小路の施主8名による一致結束も異例なら、その後80年以上の歴史を重ねた建物と住み手にも並はずれた強い結束力が漲っていたように察せられる。なのでバブル期の激しい地上げ攻勢に耐え抜いた。さらに建物も今年の3.11の地震にびくともしなかった。
 ところがである。(区分所有が仇になったなどとは思いたくないが)住人が生活しているさ中、取得された部分から解体工事が開始された。住むに住めない状況が意図的に作り出されたのだが、こうした暴挙を食い止めることは日本の社会では制度的にも現実的にも難しいという。21世紀の現代においてである。他人事ではない空恐ろしさを感じたりもするのだが・・・。
 そんな中で最後の住人である大西信之によってアート・イベント『さよなら九段下ビル』が12月26日まで開催されている。また「九段下アトリエブログ」にもいろいろなことが詳しく紹介されている。

 この良識ある行動の粋が人々の心の中に拡がりつつあるようであり、それだけがせめてもの救いかも知れない。




*1:「共同建築の利益に関する基本説明と其実例」(南省吾,『土木建築工事画報』S3.11号)括弧内読み仮名は筆者

*3:同上号に「伊勢崎町共同建築」も掲載

*2,*4:「復興建築助成株式会社による関東大震災復興期の「共同建築」の計画プロセスと空間構成に関する研究」(栢木まどか,伊藤裕久, 日本建築学会計画系論文集第603号,2006)から多くを参照した。











| 1920年− | 22:40 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
新宿御苑 旧・御涼邸(台湾閣)
 
1927年,東京都新宿区,森山松之助,現存(撮影:2011年)

 休日をのんびり過ごそうと、普段は通り過ぎてしまう新宿御苑に入ってみた。都心の大庭園ということもあって戦災で失われた部分も少なくないらしいが、実際入ってみると珍しい植物に彩られた庭園がいくつも整いまさに別世界の風情であった。そして門衛所が2棟(共に1927年)、宮内省内匠寮設計の「旧・洋館御休所」(1896年)といった歴史的建造物が残るなど見飽きることがない。
 新宿御苑の発祥は江戸期の内藤家の庭園にまで遡るとされ、玉川上水の余水を引いて造った「玉藻池」も現存する。明治以降終戦までは当時の宮内省の管理するところとなり、1949年に一般に開放されたとある。
 恥ずかしながら初めて入ってみたのだが、今まで見過ごしてきたことを後悔している。
 
 「旧・御涼邸」も戦火をくぐり抜けて残った建物のひとつであり、2001年の保存改修工事を経て現在に至る。
 昭和天皇の御成婚を記念するために台湾在住邦人有志が寄贈した館、設計は森山松之助による。森山は台湾総督府の技師としてその地でいくつもの建物を設計した経歴を持つが、赴任したのは1906〜1921年までのようなので、これが設計されたのは日本に戻って設計事務所を開設してからということになろう。なお、他に森山が日本で設計した建築としては、「両国公会堂」(1926),「片倉館」(1928)などがある。

 「旧・御涼邸」は中国南方に見られる閩南(ビンナン)式と呼ばれるデザインに拠っており、その特徴ある「燕尾」状に尖がった屋根が興味を惹く。このような中国のデザインの流れを汲む本格的な建物は日本においては数少ないのだそうだ。
 入口脇のかたつむりをかたどったような石細工は何とも不思議で、その意味合いなど私には分らない。円窓(まるまど)の文字は「於物魚躍(あゝ満ちて魚躍れりと)」という天子を賛美する意味との解説があった。
 材料は台湾から取り寄せたスギやヒノキがふんだんに用いられている。

 庭から眺めると、日本的な回遊式庭園の風景の一部としてこの中国風の建物が配されているのだが、私には不思議な調和を感じた。いや、むしろ絶景であった。しかし見る人が見れば、もしかしたら違う意見があるかも知れない。

    






| 1920年− | 19:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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