収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
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旧・田中家住宅
 
1923年,埼玉県川口市,櫻井忍夫,現存(撮影:2012年)

 近場に建築の佳品はないものかと思案したところ、数年前に川口市が取得した旧・田中家住宅を思い出した。現在は公開され「川口市文化財センター分館」としても市民に広く利用されている。
 田中家は江戸時代末期から続く麦味噌醸造業と材木商により発展を遂げ、4代目田中兵衛によりこの邸宅を建設に着手、1923(大正12)年に竣工した。関東大震災の起こった年の竣工でありしかも煉瓦を多用した建物であるにもかかわらず、地震の影響を微塵も感じさせることなくどっしりと聳え立っている。
 洋館が完成した後の昭和9年には和館が増築され(一番下の画像)、また茶室や回遊式庭園も設けられた。ちょうど兵衛が貴族院議員として政界に進出した時期にあたり、多くの賓客をもてなす必要があったことによる、そのようなことがリーフレットに書かれていた。
 洋館部分の間取りは、1階が商家らしい帳場と応接室、2階は落ち着いた書斎と座敷、そして最上階3階の見晴らしを備えた豪華な大広間に行き着く、という構成である。
 洋館の中に楼閣的な要素が若干意識されているように思えて興味深い。素封家の邸宅ならではの特徴だろうか。

 設計者櫻井忍夫(1863-1926)についての詳しい説明が、建物内部にパネルによって掲示されていたので、そこからいくつか要点を拾い上げておきたい。
 櫻井は1891(明治24)年に上京、工部大学校造家学科の第1期生であるあの佐立七次郎の事務所に入所し「東京株式取引所」(1896)などに携わった。佐立のもとを離れた後、三菱合資会社や東京電気鉄道株式会社、東京倉庫株式会社などを歴任、現存する「小岩井農場本部事務所(旧岩崎農場事務所)」にも関与したと記されている。そして1921(大正10)年に事務所を開設し独立、この田中兵衛邸などを設計した、とのこと。
          
 まず川口で佐立七次郎の弟子筋の作品に出会おうとは思いもよらず、驚いた。この建築でまず目にする外装のデザインについて、私は堅い歴史様式から一歩踏み出し微妙にアールヌーヴォー寄りの雰囲気を匂わせた個性的なデザインと見たのだが、それも破綻もなく上手にまとめられている。(それとなく「」の文字も装飾の一部として随所にあしらわれていた)なるほど本格的な修練を経た設計者の手にかかった思えば納得なのである。
             
| 1920年− | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
地下鉄ビル
 
1929年,東京都台東区,東京地下鉄道工務課,非現存(撮影:2003年)

 昭和2年に地下鉄浅草−上野間で開通し、地下鉄浅草駅の上に立ち食堂と展望施設からなる地上6階地下1階建ての地下鉄ビルは昭和4年に開業した。地下階から地下鉄乗り場に通じていた。
 当初、建物頂部には尖塔と旗がなびき、外壁面は斜めストライプなどの派手な装飾模で覆われていたようだが、写真のようにそれらはいずれも失われている。ある日、ペントハウス部分にわずかに旧状をとどめた地下鉄ビル建物を見つけ、撮っておいたのがこの写真である(以前はペントハウス部分は看板の裏に隠れていたのではないかと思う)。
 昭和の初期、川端康成の小説『浅草紅團』の中でもこの地下鉄ビルのことが取り上げられたことなどから、庶民感覚にとっていかに物珍しくハイカラで人気の高い建築であったのかがわかる。
 この建築は失われたが、近くでは「東京スカイツリー」が開業し、すぐそばに「浅草文化観光センター」が竣工したりの昨今、衆目を集める斬新さを発信する土地柄は今なお健在のようである。




| 1920年− | 20:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
川崎河港水門

1928年,神奈川県川崎市,内務省(金森誠之),現存(撮影:2012年)


             

 多摩川から東京湾にかけて現在の川崎区を縦貫する運河計画が持ち上がったのは、第一次世界大戦後の好景気を迎えた時期のことであった。さらなる工場敷地の開発が求められたことによる。その運河の多摩川側の入口がこの河港水門であり1926(大正15)年に起工、1928(昭和3)年に竣工した。現在も砂利の陸揚げに使用されている。設計は内務省技師多摩川改修事務所長の金森誠之であった。河川改修及び水門建設については、金森の働きかけで近接する現・味の素蠅工事費の一部を負担したことが実現に大きく寄与した。

 運河計画の具体案は縦横にめぐらされた大運河計画に発展、1935(昭和10)年に国の認可を得て都市計画決定された。しかし建築制限を設けられず予定地に工場や住宅が建ってしまう。さらに戦時体制への突入が影響したため昭和18年に計画は廃止の憂き目をみた。されどこの幻の大運河計画の片鱗は、河港水門付近の他、池上、桜堀、夜光、末広運河に垣間見られ、全くの机上の空論に終始したわけでもなかったようである。(*1)

 水門は運河計画において、その実現された最も象徴的なモニュメントとして残る。また、およそ従来の土木構築物にみられなかったそのユニークなデザインは、金森の主導があってこそ達成されたに違いない。
 頂部には籠に盛られた梨や葡萄,桃が直裁にかたどられたオブジェとして載り、これら当時の川崎
の名産品をもって水運がもたらす豊かな実りを象徴化したものと解釈できる。
 また、2本の塔にはフルーティング(縦ミゾ)の装飾が施され、梁の部分については当初(今は無いが)エジプトの船のレリーフがあしらわれていた。恐らくエジプトの神殿風イメージを意識したと思われるがその意味合いや参照元などは謎のままである。

 設計者金森誠之の多才ぶりについては六郷水門の項で触れたが、川崎河港水門については『土木建築工事画報』昭和3年7月号,8月号に掲載された図面と金森の撮影フィルムのスチル写真から、工事から竣工式の様子までを伺うことができる。多摩川の岸壁を金森式鉄筋煉瓦で被うべく施工される状況、エジプト船レリーフも図面や実物写真から見てとられる。竣工式の余興では、水門の橋上を舞台とし松竹キネマスター田中絹代や浪花友子らによる鶴亀の舞が演じられた。まさに日本の工業発展の桧舞台であることを内外に強く印象付けようとしているかの如く。
 

     

                 

                 

*1:『東京再発見―土木遺産は語る―』(伊東孝 岩波新書 1993)参照。


| 1920年− | 20:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
九段下ビル(旧・今川小路共同建築)
 
1927年,東京都千代田区,南省吾,現存(上1枚のみ2009年撮影,その他2011年12月撮影)

 関東大震災からの復興、すなわち耐震化・不燃化建築の普及を図るために1926年に復興建築助成株式会社が設立された。しかしそこで企画された「共同建築」の貴重な実例がもうすぐ消え去ろうとしている。

 旧・今川小路共同建築の設計者南省吾の言葉によれば「共同建築」とは以下のような建築とのこと。「共同建築と云ふのは、手取り早く云えば、隣り合つて居る幾つかの敷地の人々が、各別々に家を建てる代わりに、共同して一構の家を建て、土地を経済的に利用し且つ建築費を節約し様と云ふのである。最も簡単な、例は在来の長屋式の建物と同様。相隣る二つの家屋の隣界壁を、相互負擔(たん)の下に計畫せられた建物で二つ又は二つ以上連結したるものである。」(*1)
 かつて今川小路では、通り沿いの居住者達がそれぞれ資金を出し合い所有地を繋いで鉄筋コンクリートの一棟の長屋的な建物を建てた。ひとつの復興の形である。

 後に九段下ビルと呼ばれることになった建物の外観を一見したところ、ネット越しに見えるのはデザインが統一された1棟の建物に過ぎないかのようである。しかし実際は区分所有された建物の集合であり、これが建つ従前の敷地状況や出資割合などを色濃く反映したプランに基づいている(*2)。
 各区分の間口すなわち界壁の間隔も微妙に異なりつつ繰り返されているのは、街路側からもなんとなく感じられた。他の一般的な建物のように漫然と同じスパンで同じデザインが反復されるのと違い、ここでは外観にもプランニングの微妙な変化をひきずって画一化された建物とは異なる魅力を街路に与えているようでもある。今日的な見方ではあるが『土木工事画報』(1928,11号)掲載のファサードを見ると活気に満ちた変化に富んだものであった様子が分る。

 ただしこうしたエラく手の込んだ計画手法によるところ、他にも旧・伊勢崎町共同建築(*3)などのように実現をみたのはせいぜい2〜3名の施主による共同建築であったようだ(*4)。この旧・今川小路共同建築という8名からなる建物は異例の大規模な建物であり、そして勿論、復興建築助成株式会社による代表例として雑誌にも取り上げられた。

             ***


 さて、今川小路の施主8名による一致結束も異例なら、その後80年以上の歴史を重ねた建物と住み手にも並はずれた強い結束力が漲っていたように察せられる。なのでバブル期の激しい地上げ攻勢に耐え抜いた。さらに建物も今年の3.11の地震にびくともしなかった。
 ところがである。(区分所有が仇になったなどとは思いたくないが)住人が生活しているさ中、取得された部分から解体工事が開始された。住むに住めない状況が意図的に作り出されたのだが、こうした暴挙を食い止めることは日本の社会では制度的にも現実的にも難しいという。21世紀の現代においてである。他人事ではない空恐ろしさを感じたりもするのだが・・・。
 そんな中で最後の住人である大西信之によってアート・イベント『さよなら九段下ビル』が12月26日まで開催されている。また「九段下アトリエブログ」にもいろいろなことが詳しく紹介されている。

 この良識ある行動の粋が人々の心の中に拡がりつつあるようであり、それだけがせめてもの救いかも知れない。




*1:「共同建築の利益に関する基本説明と其実例」(南省吾,『土木建築工事画報』S3.11号)括弧内読み仮名は筆者

*3:同上号に「伊勢崎町共同建築」も掲載

*2,*4:「復興建築助成株式会社による関東大震災復興期の「共同建築」の計画プロセスと空間構成に関する研究」(栢木まどか,伊藤裕久, 日本建築学会計画系論文集第603号,2006)から多くを参照した。











| 1920年− | 22:40 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
新宿御苑 旧・御涼邸(台湾閣)
 
1927年,東京都新宿区,森山松之助,現存(撮影:2011年)

 休日をのんびり過ごそうと、普段は通り過ぎてしまう新宿御苑に入ってみた。都心の大庭園ということもあって戦災で失われた部分も少なくないらしいが、実際入ってみると珍しい植物に彩られた庭園がいくつも整いまさに別世界の風情であった。そして門衛所が2棟(共に1927年)、宮内省内匠寮設計の「旧・洋館御休所」(1896年)といった歴史的建造物が残るなど見飽きることがない。
 新宿御苑の発祥は江戸期の内藤家の庭園にまで遡るとされ、玉川上水の余水を引いて造った「玉藻池」も現存する。明治以降終戦までは当時の宮内省の管理するところとなり、1949年に一般に開放されたとある。
 恥ずかしながら初めて入ってみたのだが、今まで見過ごしてきたことを後悔している。
 
 「旧・御涼邸」も戦火をくぐり抜けて残った建物のひとつであり、2001年の保存改修工事を経て現在に至る。
 昭和天皇の御成婚を記念するために台湾在住邦人有志が寄贈した館、設計は森山松之助による。森山は台湾総督府の技師としてその地でいくつもの建物を設計した経歴を持つが、赴任したのは1906〜1921年までのようなので、これが設計されたのは日本に戻って設計事務所を開設してからということになろう。なお、他に森山が日本で設計した建築としては、「両国公会堂」(1926),「片倉館」(1928)などがある。

 「旧・御涼邸」は中国南方に見られる閩南(ビンナン)式と呼ばれるデザインに拠っており、その特徴ある「燕尾」状に尖がった屋根が興味を惹く。このような中国のデザインの流れを汲む本格的な建物は日本においては数少ないのだそうだ。
 入口脇のかたつむりをかたどったような石細工は何とも不思議で、その意味合いなど私には分らない。円窓(まるまど)の文字は「於物魚躍(あゝ満ちて魚躍れりと)」という天子を賛美する意味との解説があった。
 材料は台湾から取り寄せたスギやヒノキがふんだんに用いられている。

 庭から眺めると、日本的な回遊式庭園の風景の一部としてこの中国風の建物が配されているのだが、私には不思議な調和を感じた。いや、むしろ絶景であった。しかし見る人が見れば、もしかしたら違う意見があるかも知れない。

    






| 1920年− | 19:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・東京市営店舗向住宅

1928年,東京都江東区,東京市,現存(撮影:2011年)

 東京市によって関東大震災の復興事業の一環として建設された、鉄筋コンクリート2階建ての長屋群。1階が店舗で2階が住宅の間口2.5間の住戸が連なる。実際は数件単位で長屋状につながっており全体では250mに及ぶとも言われる。ここ最近、テレビでも紹介されたらしい。

 震災以前に遡ると、清澄庭園をはじめとした岩崎家が所有する土地の一部には元々住宅群も存在していたらしい。震災遭遇を契機として岩崎家は東京市に対して公園用地と共に住宅が並んでいた土地を寄贈し、その結果、市はここに不燃化に配慮した店舗併用住宅群を建てるに至ったということらしい。

 まず着目すべきは、(後の増築部分を除き)当初は1,2階全体が不燃性に配慮した鉄筋コンクリートで造られている点であり、巷でよく見かける正面が洋風で裏に廻ると木造の看板建築的造りとは根本的に異なっていることに気をつけておくべきであろう。
 そしてさらに素晴しいのは、相当の年月を経ているのにごく当たり前のように商店街として生きていて、環境に馴染んでいること。同時期に多く建てられた同潤会アパートが古びた姿を見せ殆んど姿を消してしまった現在においてはちょっとした驚きでさえある。
 また正面のアールデコ風味の様式的装飾も割ときれいに残っていて昭和初期の典型的な雰囲気を匂わせている。それだけでなく、当初からの装飾的な外観と後の改造が生み出した外装とが重なりあい隣り合うことによって、歴史の厚みを感じさせる偶然のコンポジションがひとつの画面に繰広げられているようだ。ここだけの唯一無二の外観デザインである。





| 1920年− | 20:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・二葉小学校(現・神戸市立地域人材支援センター)

1929年,兵庫県神戸市長田区,神戸市営繕課,現存(撮影:2011年)

 戦災を乗り越え、そして阪神淡路大震災の折には避難所の役割を果たした昭和初期竣工の鉄筋コンクリート造(RC造)小学校校舎。2008年に統廃合のため小学校校舎としての歴史に幕を下ろし、建物は再整備された上で、昨年地域サービスを行う施設として再スタートを切った。

 RC造校舎の歴史は、関東大震災後に東京に建てられた復興小学校がよく知られるところだが、その始まりを辿ると実はここ神戸の地にあったとされる。川島智生氏の研究によれば、同市の須佐小学校(非現存)が1920(大正9)年と最も古く、雲中小(非現存),荒田小(非現存)もほぼ同時に竣工した。神戸市においてRC造が採用された理由は、過去の火災による校舎の焼失を背景に防火性能に優れた構造が求められたこと、さらに建設費についても半永久的なRC造は木造校舎を建て替えるよりもむしろ経済的だとの判断が働いたためとされる(*1)。

 今般、用途を変えつつも長く使い続けられることになった二葉小学校校舎は、「半永久的構造」
というRC造採用当時の市営繕課の捉え方をきちんと受け継いだものとして評価されるべきであろう。
 ちなみに二葉小を担当した営繕課長は、昭和2〜4年という在任期間から察して鳥井信が担当したとみられ、実務においては相原弁一技師が担当していた。(初代課長の清水栄二は、二葉小の計画時期には既に独立していたとみられる。)(*2)

 

  *1:「近代日本における小学校建築の研究」(川島智生、1998)P.73,P86(表)
  *2:同P.90(表)







| 1920年− | 19:44 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・西尻池公会堂

1926年,兵庫県神戸市長田区,清水栄二,解体済非現存(撮影:2011年)


 神戸には表現主義的(あるいは分離派的)と言えそうな抽象的な意匠の建物が、東京など関東地方に比べて比較的多く残っていそうな固定観念的な思いがあった。少なくともあの阪神淡路大震災までは。最近は逆に大正の香り芳しいそうした建築も数件の学校建築残る位だろうかと、半ばあきらめていたところだったのだが、今回、素晴らしい珠玉の名品に出会うことが出来た。

 この建物の設計者は清水栄二。1918(大正7)年に帝大を卒業し神戸市土木課,そして営繕課長としてRC造の公共建築などで腕を振るい、大正15年に独立してさらに多彩な活動を展開する(*1)。清水の帝大同期生には、逓信省に在籍し大正9年卒の後輩山田守ら分離派世代に影響を与えた岩元禄がいる。分離派にさきがけて様式建築を脱し主観的な造形指向を目指しはじめていた世代に属するので、こうした表現主義的な建物を思い描いたとしても不思議は無く、むしろ気取って控えめになる多くの建築家と違って、衒いも無くストレートに表現派の道を突っ走った清水栄二の存在は貴重であろう。時代の空気を明瞭に今日に伝えている。

 見ての通り軒蛇腹や放物線アーチなど建築部位が形を変え極端にデフォルメされ様式建築の正常なスケール感覚をものの見事に撹乱している。ラッパ形に拡がる玄関庇もドイツ表現主義建築の柱頭によく見られる要素でダイナミズム(運動感覚)を創り出している。
 これと似た建物は後に建てられた旧・高嶋平介邸(甲南漬資料館)が挙げられさらに異種要素の集積の様相を強める。そして御影公会堂の大作に至る。

 この写真は、おととい7月30日の撮りたての画像である。現在は空家であった。少し前までは「ワシオ外科(医院)」として使われていて当初の用途とは変わり改造もなされたと察せられるのだが、中を見学して確認することさえ出来ない。
 どうやら報道からすると建物は解体を待つ状態にあるらしいのだが、しかしどうにかならぬものであろうかとも思った。外観だけをとっても密度の高い稀有なる表現主義建築が、震災を乗り越えて堂々と生き残ったのである。しかも作者はあの御影公会堂を設計するなど地域文化に多大な貢献をもたらした清水栄二である。どうか、この建築に救いの手がさしのべられますように・・・。
 
*1:『建築家 清水栄二の経歴と建築活動について』(川島智生,日本建築学会計画系論文集,2001)








 
| 1920年− | 21:56 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
同和病院(旧・東京医師会館)
    
1929年,東京都千代田区,設計:不詳,ステンドグラス:小川三知,建物は非現存

 まずことわっておくと、これらは私が撮影した写真ではなく、以前、ステンドグラス好きの某友人が撮って「何かの役に立つのなら使って欲しい」という添え書きとともに送ってくれた写真なのであり、それらを代理でUPしているようなものである。

 建物については正直言って見どころが希薄かなぁ、などと思い長い間しまいこんでいた写真なのだが、先日ふと奇麗なステンドグラスの画像に不思議さを覚えた。なぜ病院にこのように過剰とも思えるステンドグラスが多数飾られているのだろうか、と。
 調べたら答えは割と簡単であった。この建物は戦前は病院ではなく、小川剣三郎が設立した「東京医師会館」であり正式には「東京医師建築信用購買利用組合」と呼ばれたそうだ(*1)。つまり、用途面から見れば医師にとっての社交場の性格を帯びた建物だったので、それに見合った室内調度としてステンドグラスが取り入れられたのだろう。
 さらに、これらのステンドグラス作家は日本におけるステンドグラス制作の開拓者として知られる小川三知(1867-1928)であった。小川三知は渡米して制作技法を習得し、帰国後は「慶応大学図書館」における作品を手始めに「鳩山邸」、「黒沢眼科」などに作品を生み出す。小川の死後も「小川スタジオ」が制作を継承したのでそれらを含めると作品数は結構多い。また、元々は東京美校で日本画を学んでいたせいかそうした日本独特のセンスが特徴となっている。
 東京医師会館を設立した小川剣三郎は小川三知の実弟であり、そうした関係から多数のステンドグラスや照明のシェードなどをここでデザインすることになったのであろう。

 この白孔雀の図柄は比較的知られた作品らしい(上げ下げ窓の下半分が上がっていて裾広がりの尾が隠れている)。その他のパターンの図柄もよく見ると独特だ。大正ロマンを仄かに感じさせると言うべきか。こうしたステンドグラスについては修復され建て替えられた建物に今も飾られているが、公開していないとのことなので注意してほしい。
       



 

             

               
 
                  


   *1:『日本のステンドグラス 小川三知の世界』(田辺千代,2008)参照





| 1920年− | 19:54 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
涙凝れり(ある一族の納骨堂)


・卒業設計:「涙凝れり(ある一族の納骨堂)」  1920(大正9)年,石本喜久治
・実施された墓碑:1921(大正10)年,大阪府大阪市天王寺区,石本喜久治,現存(撮影:2006年(最下のみ2011年H.I.氏撮影))

                             **
 お墓の話ということでひんしゅくを買いそうだがご容赦願いたい。なにせ日本の卒業設計史上恐らく最も良く知られた作品でそれにまつわる話題でもあるので・・・。
 上の計画が分離派建築の典型例ということで建築史の教科書などにも登場する「涙凝れり」。タイトルからしてどっぷり大正ロマンに浸かった感じがする。シンボリックでモニュメンタルな量塊はドイツ表現主義的であり、ウィーン・ゼツェッション的耽美的な装飾も散りばめられている。

 このタイトルにある「ある一族」とは、石本氏が卒業前年に養父を亡くしたことから石本家を指すのではないかと推測されている。また、確かにというべきか小さいながらも卒業設計と同傾向の分離派的な墓碑を持つ石本家の墓が大阪天王寺に存在している。(下の画像)。この石本家一族とも言うべき喜久治の養父母と先妻が眠っているとのことであるが、一体いつ頃建立されたのであろうか。(但し、ここに石本本人は埋葬されていない)
                             **
 今年(2011年)の初旬、石本喜久治の直孫H.I.氏からメールを頂いた。墓参に赴いた折、お墓の掃除を兼ねて少し調べてみたとのこと。H.I.氏とは私のHPを通して知り合った私と同世代の方だが、H.I.氏はここを祖先のお墓としてだけではなく、祖父の作品としても考えているらしい。私も薄々同様のことを思いつつも不謹慎との謗りを恐れ言い出さずにいたのだが、実のところ基本的にH.I.氏と同意見なのであった。そして予感は的中する。
 さてH.I.氏からの知らせによれば、裏側のアーチ状の御影石部分に刻まれた3名の戒名の両脇に小さく「石本喜久治」の文字と「1921.9」の文字、つまりこの頃建立されたことが刻まれていたとのことであった。(最下がH.I.氏から送られた写真。なかなか判読しづらいのでH.I.氏は御影石周囲を水で塗らしてくださった。)
 つまり、石本喜久治は卒業設計の提出の翌年には分離派風の小振りな「石本家一族」の納骨堂を完成させ、そこに年代と署名を、まるで石本の「作品」であるかのように刻み込んでいたことが明らかになった。

 使われている素材を見ても単なる墓石を建てるだけの意図にとどまらないものを感じさせる。通常使われる御影石などの石材だけでなく、コンクリートで造られリシンを吹いて仕上げたような形跡があり、スクラッチタイルなどの建築材料が用いられている。建築としての扱いそのものなのである。
 卒業設計の「涙凝れり」に立ち戻って思い起こせば、こちらは勿論礼拝堂の機能を有した建築物として構想されており、一方天王寺のお墓も建築物としての意識が濃厚であり、これを卒業設計「涙凝れり」の延長線上にあると見ることはそれほど無理な見方でもなかろう。建立時期や署名もある、いわば「涙凝れり」の「実施バージョン」なのではなかろうか。
 さらに、やや耽美的な唐草装飾の銅製レリーフ(右の画像)については大正期頃までの表現派的な石本の好みをよく反映しているように以前から感じていたのだが、墓が造られた時期と符合している。

 この墓をして石本の処女作と言い切るのは小規模でもあり問題があるかも知れない。しかしあえてこうして取り上げたのは、表現主義的で装飾を取り入れることさえ厭わなかった大正後期頃の石本喜久治の指向を証し立てる、今となっては殆ど唯一の貴重な実例であると確信したからであり、なによりも最初期の現存作品として貴重なことは間違いなさそうだからである。
 
                             **
 なお、この墓がある大阪天王寺区の寺の開山は京都黒谷紫雲山金戒光明寺の和尚さんであるということであり、一方石本の作品経歴中にも、1921年に「黒谷納骨堂」(京都)が作られたとの記録がある。あるいは天王寺のこの墓こそ「黒谷納骨堂」であり京都という記述は誤りという可能性もあるのだが、今のところこの点について即断は避けておく。

 石本喜久治は墓を建てた翌年の1922(大正11)年に養父の位牌を携えヨーロッパに向けて旅立つ。帰国後、渡欧の記録は『建築譜』という本にまとめられたのだが、その本には渡欧の費用はこの墓に眠る養父から受け継いだ財産を処分して賄ったことが記されている。養父は生前、喜久治と共に海外を旅することを夢見ていたのだそうだ。

| 1920年− | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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