収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
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日本基督教団上田新参町教会
 
1935年,長野県上田市,古橋柳太郎,現存(撮影:2006年)

・上田散策(2)
 田園風景にいかにもぴったりしそうな、とんがり屋根の愛らしい教会を発見。明治30年にメソジスト上田教会としてスタートし、昭和10年にこの地に移転新築したのが現在ある教会堂。
 設計者の古橋柳太郎(1882−1961)は、この他にも群馬県に大谷石の安中教会(新島襄記念会堂)(1919)、東京の日本キリスト教団下谷教会(1930,非現存)など教会建築を設計した。あるいは旧・後楽園球場(1937)も古橋の設計とのことで、守備範囲の広さにちょっとびっくり。



| 1930年− | 20:48 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
東京女子医科大学病院1号館

 
1930年,東京都新宿区,増田清,現存(撮影:1992年)

 佐野利器から構造学の影響を受け、大正から昭和戦前期にかけて鉄筋コンクリート構造の建築を多数生み出しその普及に貢献した、増田清という建築家がいた。
 帝大卒業と同時に安藤組大阪支店に就職し(1913)その後大阪府の技師として(1917)、また増田清建築事務所(1924)を立ち上げるなど、官民様々な立場を股にかけつつ活動を展開した経歴を持つ。 あるいは月刊誌『建築知識』(注:今日の同名誌とは無縁と思われる)を発行して鉄筋コンクリート造建築の普及に努めた。(*1)

 活動の場は主に大阪を中心とする関西方面であった。例えば大阪における作品では、最近保存活用の要望の声が高まりをみせる旧・大阪市立精華小学校(1929)三木楽器本店(1924)が遺る。(精華小とその保存活動については「SEIKA! SEIKA! SEIKA!」「精華小校舎愛好会」が詳しい)
 また広島で建てられた建築物のうちでは、旧・大正屋呉服店(1929)(現・広島市レストハウス)が被爆の記憶を伝える遺構として現存している。

 写真の旧・女子医学専門学校は増田が担当した東京における数少ない建築であり、いくつかの棟のうち1号館の十字形放射状平面が特徴となっている。十字形平面が採用された理由は定かではないが、海外の病院の事例から病室の採光を平等としたいとする当時の代表者吉岡彌生の考え方やその他の事情が作用したのではないかと推測されているようだ(*2)。


*1:『建築家増田清の経歴と広島における建築活動について』 (建築学会論文 1999 石丸紀興 李明)
*2:『増田清と東京女子医科大学(2)−1号館の設計過程について−』(学術講演梗概集 2003 横手義洋 鈴木真  歩 加藤由美子 鈴木博之)

| 1930年− | 18:17 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
六郷水門


1931年,東京都大田区,設計不詳,現存(撮影:1992年)

 遡れば治水奉行小泉次太夫により1597年から15年かけて開削された六郷用水は、世田谷領から六郷領の田畑を潤した。昭和に入ると田畑も減り生活排水の流量が増大、逆流や浸水を避けつつ多摩川河口付近への排水を適切に行うために水門とポンプによる排水場が作られた、というのが水門誕生への経緯のようである(*1)。
 そして現在では六郷用水の機能は失われ名残りをとどめる箇所も殆ど消え、この水門が記念碑のように六郷土手に聳えている。


 煉瓦の部分は「金森式鉄筋レンガ」によると言われている。話が横道にそれるが、金森とはこの六郷水門と多摩川を挟んだ川崎側で河港水門や岸壁を完成させた金森誠之である。金森は土木技術の分野にとどまらない多様なセンスの持ち主であったらしく発明や特許が多いのは勿論、自ら設計した水門を元に映画を撮り、あるいは社交ダンスに力学的な解釈を加えた著書を出版したともいう。

 六郷水門もまたユニークなデザインではあるが、しかしそうかといって金森の関与を示す資料は無いようである。設計者は依然として不詳のままである。 (かつて私はHP上で、丸みを帯びたデザインからしてドイツのR・シュタイナー(1861−1925)の建築を思わせると書いた。まさかそのせいではないと思うけれど、シュタイナーが六郷水門を設計した可能性を示唆するような書き方のHPもあるようだ。全くあり得ない話だと思う。)


 いずれにしろ土手沿いののどかな景色、そして船だまりはかつて雑色運河とも呼ばれていたらしい。レンガの排水場とともに心をなごませてくれるどこか懐かしい風景だ。なぜだろう、脳裏にかつて西六郷少年合唱団が歌っていた曲、「ぼくらの町は川っぷち」のメロディーが流れてくる。


  *1:HP「水の話あらかると 水の土木遺産 六郷水門」






 

| 1930年− | 19:44 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
三菱倉庫 江戸橋倉庫ビル
 
1930年,東京都中央区,三菱倉庫株式会社,非現存(上:1992撮影,下3枚2012.2.24撮影)

 ちょうど都内で用事があったので、帰りに三菱倉庫の方に足を伸ばしてみた。今日撮ったのは下の3枚。塔屋の部分には囲いが掛けられていた。長年親しまれた部分であるだけに取り外して新しい建物で再利用するのだろうか。
 名残りを惜しむべく建物に近寄ってみれば、石積の低層部に装飾的な手摺やアーチ窓など、様式建築の延長上の簡素化された姿が主調を成していことがわかる。表現主義的(否、アール・デコ?)な感覚は塔屋に集中している。
 ここ江戸橋倉庫は、明治初期から「七ツ倉」と呼ばれる煉瓦倉庫が立ち並んでいたという。そんな三菱の伝統を伝える土地にあってこの大型汽船を思わせるこの塔屋を見るならば、遠い明治の昔、海運業で政府に食い込み八面六臂の大活躍を演ずる創業者岩崎弥太郎に思いを馳せてみたくなる。ならば、たとえ建て替わっても、周囲に埋もれた当たり前の景観を呈して欲しくはない、と願うのだが・・・。












 
| 1930年− | 22:12 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
川崎市役所本庁舎

神奈川県川崎市,1938年,元田稔,現存(撮影:2011年)

 横浜では高さ49mの塔を持つ神奈川県庁が「キング」の愛称で親しまれている。一方、対抗したわけではないだろうが、隣りの川崎市にも戦前から高い塔を持つ市役所庁舎が建っている。塔の高さとしては約37mなのだが、よく見るとこちらの方がスマートで心地よい垂直性を感じる。
 目立つのは階段室を兼ねたこの塔の部分だけと言っても良く、庁舎全体はいたってシンプルな造りで他に飾り気らしきものは見当たらなかった。「現代式」デザインによるところのようだが地味ながらきちっと整った印象からして、設計した作者が気になるところであった。

 設計者元田稔については川島洋一氏の研究に頼るのが良いようだ。
 元田は帝大を1925(大正14)年に卒業し、戦前は東京市役所や川崎市役所で設計を行い、戦後は独立して多くのキリスト教建築を設計した。父とともに敬虔なキリスト教信者であり、早くから西欧で発展した教会建築の継承と発展を夢見ていたようである。
 もしやと思い、独自に教会堂建築の大きな設計コンペへの参加の有無をあたってみたところ入賞歴は無いようだったが、その代わり1948(昭和23)年の仙台市公会堂のコンペでは3等入賞に同氏の名が見えた。

 市民が会する市庁舎にシンボリックな塔を伴わせることは西欧においては珍しいことではなく、川崎市庁舎の高塔の場合についても、デュドックの「ヒルベルスム市庁舎」(1928年)やエストベリィの「ストックホルム市庁舎」(1923年)などを引き合いに語られた。だが設計者元田の心のより深い部分に潜むキリスト教建築としてのゴシックの高塔への羨望は間違いなく作用していたのであろうと察せられる。(平面図を眺めていたら、まるで埋め込まれたかのように、長い廊下がきれいなラテン十字形に見えた。) 

 元田は、戦後は独立してまさに水を得た魚の如く教会堂を多数設計したが、それらのいくつかにおいても(下の例のように)やはり川崎市役所のスマートな高塔がみられる。
                日本基督教団 高井戸教会(1961年)         日本聖公会 横浜聖アンデレ教会(1957年)




| 1930年− | 22:36 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
横浜税関

1934年,神奈川県横浜市中区,大蔵省営繕管財局(吉武東里,下元連),現存(撮影:1981年)

 本記事の目玉はどちらかと言えば上の画像なので、環境も含めて「横浜税関とその周辺の風景」というタイトルにすべきだっただろうか。恐らく万国橋の辺りから撮ったように記憶する。現在と見比べればその甚だしい変貌振りに驚く次第・・・。同時に自分が若くないことを思い知らされる。遥か彼方にクイーンの塔が見え、手前にその手前に三菱倉庫が見え、並んでさらに手前には薄汚れて見えるのは日本郵船海岸通倉庫だろうか。ここは今や横浜トリエンナーレが開催されているアートのメッカであり、三菱倉庫があった場所には神奈川県警の大きなビルが建っている。

 そうそう、初めて横浜を訪れた時赤レンガ倉庫がTVのロケ地そのままにあるのを喜び、キング、ジャック、クィーンの3塔をみつけては無邪気にシャッターを切ったのだった。横浜税関のシンプルで抑制の効いたドームは最も好感が持てた。
 設計を担当した吉武東里は国会議事堂の設計に関与し、下元連はライト風の旧・総理大臣官邸の設計者として知られる。
 



↓2012年、万国橋から撮影













| 1930年− | 20:37 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
御影公会堂

1933年,兵庫県神戸市東灘区,清水栄二,現存(撮影:2011年)

 御影公会堂は、神戸の地に腰を据え公共建築をはじめとした多くの建築物を生み出した清水栄二にとっての代表作というだけでなく、神戸という地域にとっての激動の歴史を乗り越えた証しでありかけがえの無いシンボルであるように思われた。
 「白鶴」で名高い酒造家7代目嘉納治兵衛の寄付を大方の建築資金とするなど、まず同氏の地元への貢献の精神が建物の誕生のひとつの原動力となった。
 清水栄二による意匠は、それまでの集大成とも言えるような饒舌さを孕んでいる。1930年代の爛熟した様相を素直に表したかのように、アール・デコ装飾,国際様式,表現主義,構成主義建築にみられる要素,歴史様式的な円柱など様々入り混じっている。もしやそれは建築家の意図として主義主張の本旨よりも多くの人に親しみやすさを感じてもらうことを優先的した結果なのだろうか。

 特徴的な意匠が目を惹くだけではなく、冒頭で述べたように、同地域に起きた主に二つの大きな事象を経た歴史の証人として、この建物に対して敬意を表したくなる。
 まず、第二次大戦末期の神戸大空襲における被災と復興。焦土と化した町において焼けた公会堂のみが建物の形を残していたという。このことは神戸のこの一帯を舞台とする野坂昭如の小説「火垂るの墓」において語られた。どうやら右図のサッシュを囲うフレームにまだら状に残る修理の痕跡やタイルの継ぎはぎは、焼夷弾による被害の跡なのらしい。これを見ただけで十分察せられる。野坂昭如が描写しアニメ化された、あの救いの無い惨たらしさの光景が現実のものであったことを改めて思い知らされ、戦慄が走る。
 
    
 戦後、御影公会堂は財政難を乗り越え、神戸市が所有する付近では最大の集会施設として再開を遂げた。公営の結婚式場としても活用され活況を呈したという。
 二つ目に被った大きな歴史の荒波は、阪神淡路大震災であったが、無傷であり避難所として利用されたと言われている。思い起こせば崩壊した戦後建築が多数あった中で、この半永久的に機能し続けることを目指した鉄筋コンクリート造の建物は残った。個別の条件の違いもあろうが、建物の恒久性、残るも残らぬも建設に携わった人々の意志次第ということか、などと考えさせられる。
 
 ここを訪れたのは暑い夏の夕刻であった。閑散とした建物はメンテもままならない古びた表情を見せやや寂しさを感じはしたものの、しかし地域にとっては身近で無くてはならない拠り所としての存在感をも示している。喩えて言うなれば、控えめにたたずむ老人が余裕の表情である種の心の安らぎを与えてくれるのに似ている。そういうわけで、もの言わぬ老いてなお頑健な建物は、突然やってきた私にもしばし包容力を示し安らいだひと時を与えてくれたのだった。





| 1930年− | 20:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・大倉精神文化研究所(大倉山記念館)


1932年,神奈川県横浜市,長野宇平治,現存(撮影:1991年)

 オーダー、すなわち厳格な規範があるからと言って、それが方程式の如くインプットすればたちどころにデザインが答えとなって出てくる建築作品製造機の類などではないことは当然としても、様式建築を設計する際に創造的感性がいかに大切であるかについてはこの建物を一目見ればうなづける。
 お堅い銀行建築を手堅くまとめる建築家して名高い長野が、円熟の境地において、プレ・ヘレニズムというギリシャ以前のクレタ文明(ミノス文明)を扱うというアイデア、単純幾何学的形状、和風の要素も取り込んだ折衷的建物を生み出した。やや奇想を帯びつつも独自の創意でセンス良くまとめられている。足元ほど細くなる独特の形の円柱がプレ・ヘレニズム的のようだが、例えばクレタ島のクノッソス宮殿の柱を見ると比率こそ違えど確かに似ている。比率(プロポーション)をちょっと操ることによってスマートでちょっと艶めかしいイメージに変身させられる辺り、様式建築の妙味であろう。

 ところでこの建物の折衷的な建築言語の用法は、もしかすると何かを語らしめんとしていたようにも受け取られるが果たしてどうであろう。私の感ずるところでは、色々な建築言語が用いられつつも、建物全体として強い意味を強いるように構築されているわけではなく、散文のように色々な要素がそっぽを向きながら点在している、と言った方が近いような気がした。我々見る側にとってもその方がありがたい。もしかしたら、詩的な作用の可能性を長野は見出していたのであろうか。

 さらに話しはそれる。最後は最近年輩の方から伺った話題をちょっと。
 ある建築を教える大学では、第二次大戦後もある時期までは歴史様式演習などとして授業が行なわれていたと聞き私は唖然としてしまった。私はてっきり(占領軍の指示による戦前の教科書の墨塗りにも似て)、建築も様式建築は戦後になると教えることもなくなり突如モダニズムから出発したかのような先入観をなんとなく持っていたのだが、それは大きな間違いであったことに気付いた。 これからは、戦後の早い時期に建てられた建物にも様式的(スタイリッシュ)なものがあるかどうか、注意して街を歩くことにする。


| 1930年− | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・耀堂ビル

1931年,神奈川県横浜市,山越邦彦,現存(撮影:2011年)

 山越邦彦という破格の建築家が大正末期、震災後の東京に出現した。1925(大正14)年に帝大建築学科を卒業し戸田組に入社する一方、『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(略して『G.G.P.G』)という奇妙な雑誌に小論「構築 構築 Strukturisumo」を投稿した。同誌は玉村善之助,北園克衛,稲垣足穂らが参加した前衛文芸誌である。また山越は朝日新聞紙上に「プルルル生」なる筆名で投稿、山田守の設計による竣工したての東京中央電信局について曲線による無用の装飾に満ちた建物として批判し、山田ら分離派との間で紙上論争を展開した。こうした山越が目論む合理主義は、通常考えられるような美的収束、芸術としての建築への帰着とは相容れないものであったようで、その意味では分離派に敵対した野田俊彦をどことなく連想させる。

 ここに取り上げたのは旧・耀堂ビル(現・日本穀物検定協会横浜支部)の外観だが、モダニズムへの指向をうかがわせる山越個人の設計による現存建築物という意味で貴重であろう。恐らく手近に見られる建物はこれくらいで、後述の「ドーモ・ディナミーカ」は既に無い。ただし、山越による本領としたところは建築の機械的フォルム追求に終始するのではなく、むしろ1920年代の西欧モダニズムの主流であった重工業的技術のさらに先の技術そのものにより強い関心が向けられたのである。

 具体的には乾式工法,床暖房システム,浄化槽,太陽熱やメタンガスの利用などの研究が挙げられ、こうした自然エネルギーの循環を基礎とした生活環境のシステムなどをはじめとして、1933(昭和8)年の自邸「ドーモ・ディナミーカ」や1936(昭和11)年の住宅「ドーモ・ムルタングラ」に取り入れられた(*1)。
 こうした自然との調和を念頭に置いた住環境の構築や今日おおいに普及している床暖房などが昭和初期の時点で独力で研究されていたことになるのだが、まさに自然環境との共存に関わる技術開発が活気付く現在の様相を思うとき、山越邦彦の恐ろしいまでの先見性と実行力には驚嘆せざるを得ない。尚、戦後においては1974(昭和49)年に象設計集団による住宅「ドーモ・セラカント」の床暖房も担当していたとのことである。




*1:『山越邦彦の全般的な活動概要について 山越邦彦研究・その1』(梅宮弘光,矢代眞己、学会講演梗概集、2006)






| 1930年− | 20:52 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
水戸地方気象台(旧・水戸測候所)
 
1935年,茨城県水戸市,堀口捨己,現存(撮影:2002年)

 分離派建築会の結成に関った主要メンバーであり早くから西洋モダニズムと和の融合を早くから指向した建築家堀口捨己による、RC造建築の稀少な現存事例。堀口は大島測候所,神戸海洋気象台,福岡測候所などとともに水戸地方気象台を設計したが、このように堀口が測候所をいくつも設計したのは兄が気象学者であったことが関係していると言われる。
 近年大島測候所が解体され、さらに神戸海洋気象台も阪神淡路大震災で被害を蒙り移転、建物は解体されてしまったようだ。水戸のこの建物が唯一の測候所ということになった。

 この建物自体の地震による影響について、気象台のHPなどを閲覧しても特に言及されていないところから察して大丈夫ということなのだろう。それどころか気象データをはじめ様々なデータなどを発信しているようで頼もしい限り。



| 1930年− | 22:54 | comments(3) | trackbacks(0) | pookmark |
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