収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
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旧・井上房一郎邸


1952年,群馬県高崎市,A・レーモンド 井上房一郎,現存(撮影:2011年)


 レーモンドの自邸と言えば、まずRC打ち放しによる「霊南坂の自邸」(1924)が日本最初期の近代主義の住宅として知られるが、戦後に再来日して3年後の1951年に、麻布の笄(こうがい)町に今度は自邸兼仕事場を木造で建てたいきさつがある。これを気に入った井上房一郎はレーモンドから図面の提供を受けるなどして、大部分の造りを受け継いだ建物を自邸として建てたとされる。それが旧・井上邸の由来なのだが、そういうことなので設計者はレーモンドとして良いのか調べたところ、三沢浩氏の著作の作品年譜にはちゃんとレーモンドの作品として記載されていた。

 ところで井上房一郎は言うまでもなく高崎の実業家である一方、山本鼎の勧めでパリに留学、ブルーノ・タウトを高崎に招き工芸作品を委嘱、あるいは群馬交響楽団の設立などをはじめとし、様々な芸術活動とその支援に尽力した人物。要するに庇護者であるだけにずば抜けて芸術に対する造詣が深い。
 そんな井上氏の意思のままに立ち上がった住宅なのだから、これはレーモンドの作品というばかりではなく、見方にも依ろうが井上氏による「写し」としての作品が成立しているようにも感じた。そういう意味においては見え掛かりの落ち着いた風情だけでなく、日本の伝統的な創造形式の延長上則った稀有な近代建築かも知れない。(結局、ここでは作者として両名併記した。)

             
 
 伝統的な和室を含んだ落ち着いた雰囲気にまず眩惑されるが、建物全体的には近代主義に根差し、構造体などをそのまま露わにし虚飾で包み隠すことを嫌ったレーモンドの信念が表出されている。杉の足場丸太を用いたいわゆる「挟み状トラス」の構造体、ダクトは堂々と天井空間を横切っている。裸電球は障子が濾過する外光と共に室内を照らしている。
 ガラス屋根のパティオはかつて無かった創造的な空間。これはかつて横浜にあった「ライジングサン横浜本社」(1929)の天井を大きく占めたガラス天井の陰りなきモダンな光への想像を誘う。
              
 感想を言うなら、例えば『陰翳礼讃』的な闇に価値を見出す日本人の和室の感覚と、明るみに露呈するモダニズムの感覚とがきわどい緊張感をもって調和している言ったらよいのだろうか。障子=スクリーン、ふすま=パーティション。日本人の設計者なら避けたくなるようなすれすれのせめぎあいと均衡の妙が具現化されていて、またそれを堪能する自分がいた。
 今日では割と自由に和と洋の様々な融合のさせ方が行われまた抵抗無く受容されるようになったかも知れないが、これが出来た1952年頃を思うとやはり斬新な建築だったのではなかろうか。
     
 その後、2002年には公売にかけられる危機に瀕したが、井上の哲学堂建設への遺志を引き継いだ「高崎哲学堂設立の会」が市民からの寄付金をもとに落札、人々の熱意により建物は救われたということである。今も高崎市美術館に隣接しているたたずまいに接してみれば、瞬時にしてそれだけの価値が十分あることが分かる。
              







| 1950年− | 19:14 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
秩父セメント第2工場(現・秩父太平洋セメント株式会社秩父工場)

1956年(第1期)1958年(第2期),埼玉県秩父市,谷口吉郎+日建設計,現存(撮影:2011年)

  石灰石が豊富な秩父の地に1923年に設立した「秩父セメント」は、戦後昭和30年代の初頭に、武甲山がそびえ秩父鉄道が近くを走り荒川の上流が流れる大野原にもうひとつの工場、すなわちこの第2工場を構えた。
 また、高度なオートメーション化を図るためにデンマークのスミス会社が機械設計を行い、建物の基本設計は谷口吉郎が担った。実施設計は日建設計工務(当時)による。
 

 塵埃の飛散を防止し清潔な生産環境を実現することを基本的な考え方とし、いくつもの建屋が内部を密閉した。谷口による外装デザインはスチールサッシュに「原型スレート」をはめこむことによって形成し、他にセメントブロックや空洞煉瓦も使用したとされる(*1)。
 工場の全体のプランニングは、メインストリートのような広い道路の軸線に沿って原料庫,ミル室,燃焼室など諸施設が配置されており、さらにこの軸線に並行するかたちで鉄道輸送も引き込まれている。当然ながら合理性だけが拠り所とされたように見え、なるほど近代建築の真骨頂は工場にあることが今更のように気付かされる。しかしここでは殺伐とした合理性に終始することなく、縦長プロポーションによるリズミカルな格子模様で覆われた外壁と緩いヴォールト屋根は独特であって、ソフトな意味での清浄さ(つまり芸術性)を工場の敷地に行き渡らせている。近代建築には工場の名品がいくつも思う浮かぶのだが、それらの中でも秩父セメントの場合は機械文明を称揚するデザインから歩を進め、人間性に寄与することを基本としたデザインに移り変わった時期の作品ということになろうか。
        
 さらに谷口吉郎だからこそなせる業であろうか、個性的なデザインを眺めていると工場というだけではなく「神殿」ともいうべき崇高な空間に出合ったような感覚が呼び起こされる。谷口吉郎がシンケル等新古典主義建築から影響を受けたことはよく知られるが、それに類しよう崇高さが秩父セメントの工場においてもある程度意図されていたであろうことは、例えば慎重にデザインされたであろうシンプルでモニュメンタルな二本組み瓢箪形断面の煙突などから明らかに感じ取ることが出来る。
   





*1:「秩父セメント株式会社・第2工場」(谷口吉郎 「建築雑誌」1957.7月号 vol.72 no.848 )



| 1950年− | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
明治大学駿河台図書館

1959年,東京都千代田区,堀口捨己,非現存(撮影:1995年)

 1990年代半ば頃だったと思う。明治大学で堀口捨己の図面展がここで開催されたので行った帰りに撮影しておいた写真がこれ。現在の変わりようからして撮影しておいて本当に良かったと思う。

 駿河台校舎は全般に見て、部材断面的にやや華奢な感じのするRCの柱や梁、薄めのスラブが真壁風に露呈され、そうしたところを見ては堀口の手に掛かった建築であることを感じた。もしかしたら木造建築を組む感覚で設計されたのかな、などと想像を巡らせたりもした。
 想像はさらにふくらんでいく。都市の狭い道は「露地」に見立てられ昇華された上で建物と一体化する。またRCのモダニズムの建築であろうとも、ペントハウスのレベルにおいて、意識としては縫うようにして到達する(右のように)形を変えた「楼閣」があったりするのかも知れない。さらに堀口建築が成り立つためには派手なアクセントが必要となる。
 建物のエントランスの庇の上は十字型の柱梁で2,3階の一部が吹きさらしとなっている。庇を見上げると(つまり2階床のレベルには)下の写真のようにふたつのガラスブロックの円筒があった。円筒の中には照明器具が仕込まれていたのだが、注目したいのはそのガラスブロックの派手なオレンジ色。自然光や人工照明でオレンジ色の光が照らしつつ、薄紅をさすようにぼやっと周囲に映り込む仕掛けだったのではないだろうか(実際、薄暗いだけで用をなしていなかったが・・・)。

 日本の伝統的なボキャブラリーを咀嚼していさえすれば、西欧の新興建築を作るなんてわけないことと言わんばかりに、ここに堀口の建物が存在していた。




















| 1950年− | 22:47 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・岡本太郎邸(現・岡本太郎記念館)
 
1954年,東京都港区,坂倉準三,現存(撮影:2011年)

 岡本太郎と坂倉準三の接点はどのあたりにあるのだろう、と思い調べてみると、案の定、両者に交流のあることが分った。後に仏文学者となりパリに滞在中は岡本らと交遊のあった丸山熊雄の著書『1930年代のパリと私』にそのことが書かれている・・・との記事が載るブログをみつけた。(*1)
 坂倉は1929(昭和4)年に渡航し周知のようにコルビュジエのもとで修行し1939(昭和14)年に帰国した。一方、岡本のフランス活動時期も1929(昭和4)年から1940(昭和15)年の間でほぼ重なる。国際シュルレアリスム・パリ展に《傷ましき腕》を出品するなどの活動があった。ということなので、坂倉が岡本に対して辛辣な批評を加えていたという交流の存在は時期的に考えても頷ける。そしてフランスからの引揚げ時の船には荻須高徳や猪熊弦一郎、それにシャルロット・ペリアンも乗船していたらしいが会話がなされたかまでは分らない。
 岡本邸を坂倉が設計するに至った経緯も、恐らく戦前からの関係が基礎となっていたのだろう。

 さてもうひとつ、特徴的な凸レンズ形断面形状の屋根についてもネット情報ですんなり腑に落ちた。それは初期の坂倉事務所に在籍していた担当者村田豊によるアイデア(*2)のようで、無柱のアトリエ空間を作り出す形だった。村田豊もコルビュジエのもとへ渡った後独立して活躍したが、1970年の大阪万博では空気膜によって「富士グループパビリオン」という一度目にしたら忘れられないような建物を実現させた。岡本邸の凸レンズ状の膨らみが発展し、空気膜で建物ごと膨らんでしまうまでになるとは面白いものだ。

 現在岡本太郎記念館として整備された建物は、場所柄も手伝ってか若い人を中心としたちょっと人気のスポットの雰囲気がある。しかも内部まで写真撮影が可能とは嬉しいかぎり。下の画像の椅子は坂倉のデザインであろうか(?)。岡本太郎の遺品のピアノに描かれた不思議な模様に妙に惹かれた。
         

*1: 「神保町系オタオタ日記」
*2: 「20世紀日本建築・美術の名品はどこにある」による

| 1950年− | 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
西郷会館

1952年,東京都台東区,土浦亀城,非現存(撮影:2008年(解体後の画像は2010年))


             
 正式には「上野広小路商業協同組合ビル」と言うらしい。この建物も銀座の三原橋センターと同様、露天を撤去し商店が入居するビルとしての整備を進めたGHQの指示による建物であった。しかし土浦のGHQとのつながりや設計を引き受けた経緯などははっきりとしていない(*1)。
 それにしても感心してしまうのは、上野の山の斜面を建築空間に活用し屋上部分は「人工地盤」として上野公園の延長として広場を拡張する土浦亀城の発想だ。三原橋センターの場合も然りで既存の地形である川底と橋を建築に転換したのだが共に大したものだ。これらと戦前の土浦の白くて可憐なジードルンクのシリーズとがどうも結びついてこない辺り、ちょっと気にかかる・・・。
 私が感ずる限りで言えば、西郷会館は本質的には穴居式住居の形式に近いというか似おり、日本では稀有な建築例なのではないかと思っていた。一般的に言って穴居式住居には構築された建物の外観を必要としない。西郷会館の場合、存在していたファサードの表面はくまなく看板類で覆われ、解体前は上図のように防護ネットで覆われ、ついぞ本当の外観を人前に示すことは無く終った。いや、本当の外観など無く示す必要も無かったからそうなったと言うのが正しいのか。
 こうした珍しい建物も、ある意味で日本の戦後の特殊な時代状況の反映であったのだろうが、昨年使命を終え解体された。

                             ***

 昨年末に上野を通りかかったら既に建物は無く、恐らく昔そうであったように西郷隆盛像が見おろすように立っていた。あたかも建て替え工事を高みから指揮するように。西郷さんが睨みを利かせた現場はさぞ引き締まっているに違いない。                  




                            ***

 隣接する上野松竹デパートの建物は現在もある。こちらは、元々上野松竹劇場として1953年にオープンした映画館であった。その真上には、右下図のコンクリート造の「あずまや」風の部分があり公園の景観に同化している。これは通常のビルであれば屋上の階段室に相当するようであったが、随分前から閉鎖されているようでもあった。
      


*1:『土浦亀城建築事務所旧蔵資料の整理−歴史系博物館における建築資料研究その2−』(早川典子,日本建築学会大会学術講演 2005.9)による


| 1950年− | 20:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
川崎国際生田緑地ゴルフ場クラブハウス(旧・川崎国際カントリークラブ)


1951年,神奈川県川崎市,土浦亀城,現存(撮影:2011年) 

 戦前、F.L.ライトに師事しさらにB.フォイエルシュタインから西欧のモダニズムを吸収して乾式工法の住宅を多数手がけていた土浦亀城による、戦後早い時期に完成した鉄筋コンクリート造のゴルフ場クラブハウス。ちなみに土浦はこの他三原橋センター(シネパトス)やつい最近取り壊された上野の西郷会館などを、同じ時期に設計している。

 最近、私はこのゴルフクラブについて建て替え計画とその説明会が予定されていることを知り、とにかく行くことにした。ゴルフ場の存在は知っていたが何となく敷居が高いのではないか、などと今まで二の足を踏んでいたのだったがそうも言っていられない気分になった。公共ゴルフ場のためなのか、ありがたいことに突然の訪問にもかかわらず管理者の方々から親切かつ丁寧に建物の内外をくまなく案内して頂きことができた。(厚く御礼申し上げる次第です。)建物を見学しつつ、今から60年前の建物なので確かに表面的には古びて見えたものの丁寧に補修されつつ使い続けられてきた様子も窺え、私が見た限りでは手を加えればまだまだ使用に耐えるようにも感じた。
        

 建物は生田緑地の傾斜地に沿って建ち、まず道路際の一番高い所に割と控えめにクラブハウスのエントランスが見える(冒頭の画像)。水平庇が特徴的なこの建物に入ると、豊かな自然の中に広がりに抱かれたコースを一望のもとに見おろすことができ(上左右)、そして建物から張り出したカート乗り場に降りてコースに向う(右画像)。
 傾斜地を活かした空間構成は土浦の得意とするところであったようで、例えば有名な土浦自邸は好例であろう。師のF.L.ライト譲りということだろうか。このクラブハウスでは、高さレベルを異にするいくつかのフラットルーフの外部空間がルーフガーデンとなっていて、様々なレベルから素晴らしい眺望が楽しめる造りとなっている(*1)。
 また、内部のラウンジ(左下画像)や食堂には暖炉がそれぞれ1箇所ずつ設けられていた。クラブハウスの暖炉は今日ではあるいは常套的アイテムかもしれないが、特にこの建物においては暖炉のある空間を推奨していたF.L.ライトの影響が働いているのでは、もしや・・・などと想像を逞しくしてしまうのであった。
              

                       
 終戦後の時代背景を考えたとき、限られた少ない資材をいかに有効に活用するかということは、恐らく設計上の大きなポイントであったと考えられる。
 建物の外壁には煉瓦がある程度用いられているが、当時煉瓦は比較的入手し易かった材料であったようなことをどこかで聞いたことがある。もしそうであったならば煉瓦は意匠上の効果というだけではなく、鉄筋コンクリートの部分を最小限に抑える手段として用いられたとも考えられる。それにしても、コンクリートの庇を見ると、今日では考えられないような薄さだ。
 スチールパイプの手摺も必要最小限に出来ていて、屋上ではちょっとドキッとする、と言うか今日的にはまずあり得ないようなシンプルな手摺。しかし無駄を省く単なる節約的発想だけではなく、極限まで切り詰めつつもそれを意匠効果として昇華させたいとする意思も確実に感じられる。あるいはこの辺りに、(豊かな時代に育った私など忘れがちになる点でもある)戦後のシンプルさを建前とするモダニズム建築の発達を後押しした考え方が潜んでいるのかも知れないと感じた。    

  


   *1:現在、実際にルーフガーデンとして自由に上がれる範囲は限られているようです。

| 1950年− | 19:11 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
読売会館(よみうりホール,旧・そごう東京店)
 
1957年,東京都千代田区,村野藤吾,現存(撮影:2010年)

 ガラスブロックつながりでもう一件といえば、村野藤吾の建物を挙げざるを得ないだろう。
「そごう東京店」すなわち「有楽町そごう」としておなじみだった建物もデパートではなくなり、今となっては建物の命とも言える外装が大きく改変されていかにも痛々しい。だが、私が以前目にしていた建物も実は竣工当初の外装ではなく改修の後の姿であった。型板ガラスのストライプ模様こそが、元は本当のガラスブロックであったらしい。(過去の画像では、ここ「黒崎そごうメモリアル」が詳しい)
 1957(昭和32)年、建物はガラスのストライプとテッセラタイルの壁面が装飾的な被膜として構造体を包み込むかのように姿を見せたが、その隣では(見方次第では)対照的に丹下健三の旧・東京都庁舎もほぼ同じ頃に竣工した。所謂「新建築事件」(*1)が起きたのはこうした状況においてであった。今では一部残ったガラスのストライプ模様だけが過去の騒ぎの証しということだろうか。また一方で、白大理石をあしらった可憐な階段も、忘れ去られた過去のようにひっそり喧騒の渦中にたたずんでいた。

 そういう経緯もあるせいか、私でさえ今も小生意気に言っていいのかという不安はある。でもあえて省みず書けば、村野藤吾の建築には様々な材料を渾然一体とし魔法を演じるように空間を建築空間を現出させるところに魅力を感ずる。そしてガラスブロックも幾度となく用いられたお気に入りのアイテムであったとみえる。用い方が建物によって異なるように見えるのは、材料が主だからではなく、その都度の建築のトータルなイメージがが主であり必要に応じて材料が料理されたからであろうか。興味は尽きない。

                          
村野藤吾によるガラスブロックの使用例を2点
(左下:「渡辺翁記念会館」(1937), 右下:「高島屋の増築」(1963年増築部。彫刻は笠木季男))
 
     


*1:村野藤吾の「そごう」の『新建築』掲載にあたり、誌上で論評・アンケートなどを掲載。村野と親しかった社主吉岡安五郎がそれを知って激怒、川添登編集長ら編集者全員が解雇された。


| 1950年− | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
豊島公会堂(みらい座いけぶくろ)
 
1952年,東京都豊島区,設計者不詳,現存(撮影:2010年)

 今年の酷暑には参った、などと振り返りつつ書いている今年最後の案件は真夏の豊島公会堂。
 なぜこの建物を?、と思われるかもしれないけれどもその疑問は全くその通りで、これまで建築物的意匠的評価に絡んで話題となったことなど恐らく一切無かったに違いない。(随分以前に、私が区民バンドの末席に加えてもらいここでのコンサートの演奏に参加した思い出の場所だから・・・そんなことはさらにどうでも良いこと) 敢えてとり上げたのは、やはり終戦の混乱から立ち直ろうという1950年代初頭の鉄筋コンクリート造の数少ない本格的文化施設に対する関心から。そして戦後65年を経て都心の多くの建物が建替えられている中、公共施設として戦後の歴史の重みを帯びてなお残るこうした建物には光を当てておきたいという個人的な思いから、私をして酷暑の中でシャッターを切らせたのだった。
 竣工時期については1952(昭和27)年と区のHPに記されている他、「公会堂建築」(佐藤武夫著)という文献にも昭和27年10月竣工の記載がみられる。しかし設計者は不明であり、定礎石にその当時の区長須藤喜三郎氏の名が刻まれている位しか分からない。802席という座席数は現在値だが、当時から決して小規模なホールではなかったものと思われる。
 デザインとして見るべき部分はやはり正面位だろうか。少し化粧直しされたように見えるが、戦前の新古典的な威厳が正面の列柱によって示されている。(GHQの居館第一生命館に似せたわけでもなかろうに)。その辺りは先日とり上げた第一鉄鋼ビルとどこか共通して、戦前のデザインをひきずった感じがしないでもない。
もしも戦後に各地に普及したプロセニアム形多目的ホールの先駆例にあたる建物ならば、研究する価値があるのかも知れない。

                         **

 ところで、公会堂のすぐ隣は豊島区の総合庁舎。こちらは少し時代が下って1961(昭和36)年の竣工(下の建物)で、一部豊島公会堂の建物とつながっている。現在、この市庁舎は移転計画が進んでいると聞く。 
 豊島区と言えば、池袋モンパルナスで知られるようにアートで満たされており、市庁舎入口脇にもこのような一対のレリーフがある(最下の左右画像)。こうしたのどかで時代を感じさせる作品などずっと残って欲しいもの。



           




| 1950年− | 18:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
NTT霞ヶ関ビル(旧・霞ヶ関電話局)

1957年,東京都千代田区,日本電信電話公社(内田祥哉),現存(撮影:2010年)

 戦前の逓信省は1949(昭和24)年に郵政省と電気通信省に分割され、電気通信省の業務は1952(昭和27)年に設立された日本電信電話公社に受け継がれた。言うまでも無く、現在はNTTファシリティーズへとつながるわけだが、ここで電々公社時代の建築を取り上げてみたい。
 
 電話局舎のように、通信機器を収納することをひとつの目的とした建物はどうしても閉鎖的で無味乾燥になりがちかも知れない。そうした問題への気配りがこの建物には感じられる。
 ここではコルのユニテ風に大きな開口部で占められた立面と、これと対比的な重厚な黒い壁体によって構成されている。黒い壁は、よく見ると上階よりも下階ほど耐震壁の占める幅の割合が大きくなっていて(逆に、開口部の幅は下階ほど狭い)、構造上の原則が外観デザインに応用されたことが分かる。
 この建物を担当した内田祥哉は、同時期に鉄骨トラスのドームの戦後の先駆(現・NTT東日本研修センター講堂,1956)を成している。構造のシスティマティックな部分を重視する姿勢は、ここにも発揮されているようだ。
         




| 1950年− | 20:48 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
三木ビル
       
1957年,東京都中央区,大江宏,現存(撮影:2010年)

 先日取り上げた大江宏の初期の代表作「法政大学55/58年館」と同時代の建物のひとつ。
 今日、三木ビルはオフィスビルがひしめく中で、遠目には何の変哲も無い目立たぬ存在のようになっている。けれども近寄ったりあるいは裏に廻って見てみると、確かに1950年代的な建物として、その雰囲気がしっかり滲み出ている。
 コンクリートの構造体としてのグリッドフレームをそのまま建物の外観としている点は、柱や梁を現す伝統的な日本建築のアナロジーであろうか。竣工当初の正面はサッシュが直接見える現状の立面とやや異なる。かつては厚みのあるフレームの間に縦型ルーバーが嵌め込まれていたので、構造体のみ強調されたシンプルで迫力ある外観であったようだ。(施工した清水建設の記録からその雰囲気が少し窺える)

                
 下の一枚だけは1964年に竣工した第2三木ビルのエントランス付近。(第1)三木ビルの裏側に建っている。打ち放しコンクリートによるグリッド状の天井や壁面の造形も同様に当時の建築の考え方を伝えている。つまり、構造体即デザインでなければならないということ。


| 1950年− | 18:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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