収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
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駒沢陸上競技場
    
   1964年,東京都世田谷区,村田政真(構造:横山不学),現存(撮影:2012年)

 陸上競技場(現正式名称は、駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場)の設計者村田政真(まさちか)(1906-1987)は、東京美校卒業後岡田信一郎や土浦亀城の事務所に勤務、戦後は独立して鉄骨シェル構造による晴海の東京国際見本市会場(2号館)やこの陸上競技場などを設計した。これら大架構の建築家として知られるが実際は様々な種類の建築を手掛けた。

      

       
 よく知られるように、駒沢のこの地は、開催を返上した1940年東京オリンピックの会場として予定されていたが、戦後の1964年の東京オリンピックに際して高山英華の配置計画により、このように各競技施設が整備された。
 広場の敷石には廃止された都電の線路の敷石が用いられ、美しいパターンが描かれた。また車路と歩行者の空間とを立体的に隔てる方式の広場は、当時としては全く目新しいものであった。競技場のそばにも上下をつなぐらせんのスロープがある。

    

 競技場は、緩やかなカーブの杯のような観客席の構造体と、花びらが伏せるような庇の構造体の組み合わせがユニークでありまた美しかった。最近のことのようだが、保護のための白い塗装が施されていた。当初は打ち放しコンクリートであったはずである。


       

       

       





| 1960年− | 19:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
太宗寺

     
1962年,東京都新宿区,設計:清水建築設計事務所(清水哲夫),構造:緒方建築事務所(緒方一三),現存(撮影:2011年)(*1)

        
 HPシェルの屋根に目を奪われつつ、誰が設計したのだろうかと思ったりしていたのだが、最近になっていくつかの建築誌に掲載されていたことがわかった。 『建築文化』(6202)及び『近代建築』(6205)に掲載され上記データの他、施工は清水建設蠅箸いΔ海箸任△辰拭また『建築文化』には構造協力として早大谷資信研究室と記されていた。
        
 『近代建築』誌の方には、神代雄一郎氏が「現代の記念性」という題名で寄稿している。(それは後に『現代建築拝見』(井上書院)に再録所収された)。
 その中で、神代氏は日本独自の生と死の空間について、その当時建てられたいくつかの新しい寺院を引き合いに出しながら論じていた。ただ太宗寺についてはあまりお好みではなかったのかほんの少しだけ、まさに劇場で「宗教的なショーを見物する」空間と、ちょっと手厳しい見方であった。代わりに前方後円墳プランの専念寺(坂倉準三設計)(*2)の方が日本独自のかたちということで好意的に書かれていた。もちろん、こうした論で個別の建物評に対して過度に一喜一憂すべきではではなかろうが。

                          ***

 新宿の太宗寺は、慶長元年頃開かれた「太宗庵」を前身とし、寛文8(1668)年に霞関山本覚院太宗寺という浄土宗の寺院として創建された。内藤氏の菩提寺である。境内には江戸期の像が安置されており、江戸六地蔵の第三番の地蔵菩薩や、閻魔像、それに奪衣婆の像はかなり怖い。また1952年には内藤家墓所から切支丹灯篭が出土した。そのゆえんに興味深々。下部分がそれで上半分は復元されこうして置かれている。
                   


 *1:ここに記したデータは『建築文化』による。また同誌掲載年を建築年として表記した。
 *2:こちらはどうも建て替えられたようである。



| 1960年− | 21:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
渋谷区総合庁舎と渋谷公会堂

        
        1964年,東京都渋谷区,建築モード研究所,現存(撮影:2013年)

◆1960年代の公共建築(6)
 渋谷駅周辺では大規模な再開発が始まった。そこで私も約2週間ほど前に旧東横線渋谷駅(坂倉準三,1964)や東急東横店東館(旧東横百貨店,渡辺仁,1934)を撮りに行き、さらにその足で渋谷区総合庁舎と隣接する渋谷公会堂に向かった。なぜならここでも建替え計画が報じられているからである。

 終戦後に作られたアメリカ占領軍の家族用住宅ワシントンハイツの返還により、これらの建物はその跡地の一部に建てられた。竣工した1964年は東京オリンピック開催の年でもあり、まず渋谷公会堂は重量挙げの競技会場として使われたそうである。
       
 さて設計を行った建築モード研究所とは、高橋武士が設立した設計事務所である。高橋武士は日大を昭和11年に卒業しA・レーモンドの事務所に就職、入社時点では構造設計者として採用されたそうである。(*1)終戦後は東京都建築局に在籍した。当時の戸山ハイツ近くに建てられた近代的モデルスクール西戸山小学校(1951年,現存)の担当者として名が記録されている。あるいはそうした役職中、メーターサイズの石膏ボードの製造を要請したという話が某建材メーカーの社史に残る。
 また、正三角形平面がユニークな日比谷図書館(1957年,現存)の設計者として知られており、建物全体を大胆かつ明快な形状とする方向性はこの頃既に芽生えていたようである。その後独立し「建築モード研究所」を設立、これらの建築をはじめ多数の公共建築を手掛けた。
       
 渋谷区庁舎の長大な緩くカーブした外壁面は、誰の目にもユニークかつ迫力ある外観に映る。これは私の想像だが、おそらく区のシンボルとして建物を表現するにあたって、中心に高い塔を建てるといった様式的で垂直指向の古臭いやり方によらずに、逆に、水平的で流れるようなダイナミックな迫力を、新しいシンボリックな表現と考えて適用したのではないだろうか。どうもこのアイデアはお気に入りだったらしく(?)、後の他の庁舎でも同様にカーブした外壁が用いられた。
 内部に貼られたブルーのタイルが美しかった。そういえば「新幹線ブルー」が話題となった東海道新幹線の開業も1964年であった(直接の関係は無いであろうが)。
                     
 上の時計はもしかして「日の丸」・・・?     下は二つの建物をつなぐ部分。
                     
 渋谷公会堂については外から見たのみであったが、区庁舎と造形的にコントラストをなすような印象を得た。しかしキャノピーが曲面状となっていて共通部分もある。通り側の立面は、どことなく日比谷図書館の道路側立面を思い出させた。
 なお、1960〜70年代にかけて、ここで多くの歌番組などが収録された。建物を見上げてしみじみ感慨にふけるオヤジ世代でありかつ田舎者である私自身を確認した。もっともこうして見ているのは、2005年に改修が施された後の外観なのであるが。

           

           



  *1:「私の受けた建築教育」(高橋武士,『建築雑誌』Vol.91 No.1106 S51.4)

| 1960年− | 21:04 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
松戸市民会館
 
1964年,千葉県松戸市,石本建築事務所,現存(撮影:2012年)

◆1960年代の公共建築(5)
 石本建築事務所により1964年に竣工、事務所創設者石本喜久治が逝去した翌年の建築である。
 プラネタリウムや1212席のホールなどを備え、現在もおおいに利用されている。

 さて石本喜久治といえば分離派建築家として、旧朝日新聞社本社屋(*1)や白木屋百貨店を世に送るなど、今日言われるような「アトリエ派」建築家の元祖的存在ともみられる。しかし戦後になるとアメリカ式の経営方式を取り入れた話が伝わるなど、仕事場を大規模な組織設計事務所として整えることに成功した。これには長野八三二の経営手腕によるところが大きかったと聞く。
 松戸市民会館が建てられた頃には、庁舎など公共建築を多く手掛ける体制は既に軌道に乗っていた。(因みに松戸市庁舎も石本建築事務所の設計(1969)である)
 そういうわけなので、この時期の建物を考るならば、個人の作家による建築作品としてその評価云々・・・という見方よりもむしろ、まずは戦前から続く建築事務所スタイルを変貌させた成果としての建築事例として見るべきなのかもしれない。

 東京のベッドタウン松戸市ではその近郊に常盤平団地が1960年に入居が開始された。この市民会館はその数年後に駅にも近い市街地に建てられた。
 もうひとつの見方として、1960年代の建築として、これは高度成長期に各地に設けられた多くの多目的ホールの典型、いや好例と捉えることができるかもしれない。
 とかく機能の充足と効率性だけの無味乾燥な建物が蔓延した当時の一般の風潮にあって、何かしら一歩踏み込んだ思考がな
されているようでもある。大胆なピロティなど近代建築の語彙と共に、あるいは仄かに日本的な設計者の個性などを刻み込みながら、人間の使う器として建築の針路をきちんと定めようとしているようでもある。特にコンクリートに穿たれたちょっとした造形を眺めているうちにそう思えてきた。ひとりのスター建築家は失われても、擁されていた何人もの設計者の気概は、むしろ盛んに息づいていたに違いない。 
           
           
               


 
 *1:アトリエ派的と言ったけれど、これは実際には竹中工務店において担当した建築


| 1960年− | 22:36 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
葛飾区庁舎
        
        1962年,東京都葛飾区,佐藤武夫,現存(撮影:2012年)

◆1960年代の公共建築(4)
 葛飾区庁舎の大きな特徴は、地上階のほとんどがピロティとなっているところであろう。それは過去に何度となく被害を蒙った経験による、河川の氾濫による浸水対策のためであり、もし仮に江戸川や中川が決壊したとしてもピロティ部分までで浸水がくいとめられるように計画されたのである。普段はピロティを駐車場などとして利用されるように計画されたが、それは現在も変わっていない。また屋上には非常用のヘリポートが設けられていた。
 ちなみに防災に対する配慮を第一に考えたこの庁舎について、浜口隆一は解説文(*1)のタイトルを「洪水に浮かぶ区民のための砦」とし、中世の都市を引き合いに出しながら解説した。
          
 ところで荒川,中川,江戸川に囲まれたこの一帯は、かつて1947年のカスリーン台風により大きな被害を受けていた。私はそうした河川の氾濫は遠い過去のものと思っていたが、調べてみたらそれは間違いであることが分かった。もしもカスリーン台風と同規模の台風に襲われさらに堤防が決壊した場合、今日でも相当な被害を受け大変な被害額になるという試算があるようだ。つまり佐藤武夫の事務所による計画上の配慮は、竣工して50年を超えた今日でも有効であったということが言えるかもしれない。
                

                                

 現在の庁舎の姿を竣工時の写真と見比べてみたところ、増築や改装を経て竣工時の雰囲気がかなり薄らいでしまったことがわかる。顕著な変化の筆頭は、まずかつての中庭に高層棟が増築されたことであろう。
 下の写真にある正面のアプローチ階段も、後になって取り付けられたものであった。当初はこの正面前庭部分には階段ではなくがあり、スクリーンのような穴あきPC材による外壁と相俟っていかにも佐藤武夫の建築らしい独特の雰囲気があった。外壁はRC打ち放しであり、バルコニーの手すりも現在のような金属製ではなく当初はRCで建物と一体化した造形がなされていた。
 今でも竣工時の雰囲気を彷彿とさせるのは、議事堂の玄関の煉瓦の透かし積みであろうか。
          

          

          

                             

 ここには区庁舎だけでなく都の出先機関などの施設もある。それぞれの建物が異なった趣きを持ち、ひとつの敷地の中で建築群としての造形の工夫がなされたことがわかる。例えば下の写真のような円形の建物は清掃車車庫である。また勾配屋根を持ち瀟洒な木造の邸宅に見える建物(さらに下の写真)は、郵便局であった。           
          

          

          




    *1:『新建築』1962年11月号



| 1960年− | 22:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・東京国際郵便局

             
       1968年,東京都千代田区,郵政省(武田礼仁),現存(撮影:2010年)

◆1960年代の公共建築(3)
 逓信ビル(逓信総合博物館)、既になき東京郵政局、これらは戦後の郵政建築に道筋を与えた小坂秀雄の設計であった。そして東京国際郵便局が加わって「庇の建築」群は大手町の街並みに統一感と品格を与えていた。しかしこれまで親しんだこの風景を眺められる時間も、再開発の進行により残り僅かとなったようだ。

 そんな折、以前から気になっていた東京国際郵便局の設計担当者について調べてみたところ、『郵政建築 逓信からの軌跡』(*1)の観音克平氏(元郵政省建築部)による解説の中に答えをみつけることができた。
 この建物は郵政省建築部の武田礼仁氏の設計によるとのこと。武田氏は他に松山郵政局(1967年)を設計し、また1968(昭和43)年に設計課長となった際には、既に定着していた「庇の建築」路線の踏襲を表明したとある。また1973年から建築部長に就かれたとの記載が年表にある。そして東京国際郵便局について「武田の最高傑作」であり「ここには彼の郵政スタイルにかける執念すら感じられる」と、解説の中で観音氏は称賛の言葉を惜しまないのだった。

             


             
                                  
                              

 さて、もうひとつ気になることがある。それはトレードマークの如く普及した各階全周庇の「庇の建築」の郵政局舎がどのようないきさつで生まれたのだろうか、ということである。その疑問についても上述の著書『郵政建築』は答えてくれているので、以下にごく簡単に要点を拾っておきたい。

 終戦後、郵便事業は逓信省の分割により組織された郵政省で取り扱われるようになり、郵政局舎も近代合理主義建築を基本とした標準デザインで統一する方向で模索が行われた。その最初の試みは実は郵政関連の建物ではなく、小坂秀雄氏による外務省庁舎のコンペ案がモデルの役割を果たしたのだった。これは建物各階全周に庇が巡らされた建物である。庇の建築の源流は恐らく吉田鉄郎による大阪中央郵便局にまで遡ると考えられ、外務省の設計において吉田鉄郎もアドバイザーとして加わり、柱と梁が明確な真壁の建物となって実現した。

                 

 この各階・全周に庇が取りついた局舎は、昭和30年前後から全国いたるところに続々と建てられ、郵政局舎の基本スタイルとして定着した。そこには小坂秀雄をはじめとする歴代建築部長の指導体制があったからとも言われ、庇の建築の適否を論ずることさえタブーという時代もあったそうである。当時の建築部長のひとりである薬師寺厚氏は論文で庇の効用を考察し、(空調が整わぬ時代に有効だった)「日射の遮蔽」、「雨天時の風雨からの外壁・サッシュの保護」、「火災時の上層への延焼防止」といった内容を挙げ、庇の建築のメリットを訴えた。
 しかし徐々に郵政建築のマンネリ化に対する批判、あるいは個性的な建築の復権の声もささやかれ始める。昭和30年代末以降には敷地の高度利用、機械空調の導入、階高が高く工場のように機械化された集中処理局の誕生など、建築をとりまく条件の変化は場所をとる庇を作る必然性を次第に失わせていった。また設計者集団の世代交代も当然ながら新たな考え方を生んだ。
 そんな中で一旦定着したスタイルが一朝一夕で変わったわけでもない。上述したように武田礼仁氏が庇の建築の踏襲を選択し、その完成度を高め東京国際郵便局に結実させたのは、こうした時期のことであった。
 そして郵政局舎のデザインが多様化をみせ始めるのは昭和45年ごろ以降であったことが、年表に記されている。地域色を打ち出した郵便局舎など、多様で自由な設計へと向かった。

                              

 さて、改めていくつかの庇の局舎の写真を参考までに下に挙げてみた。卑近な話だが職場の近くにも昔は郵便局だったという庇の深い建物がある(右下)。ごく身近なところにまで庇の建物が及んだ好例か。その他、芝郵便局(1965年)や川崎中央郵便局は確かに郵便局だと一目で分かるし、見ているだけでも美しい。

 逓信省の時代の昔から、「標準設計」という誰にでもわかりやすくかつ親しまれる局舎を目指して脈々と模索が続けられてきた伝統がある。そうした中で生み出された旧郵政の「庇の建築」も、恐らくその代表的な事例のひとつと言えるのではないだろうか。

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(参考)庇の局舎いろいろ

     
   
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  *1:『郵政建築 逓信からの軌跡』(監修:日本郵政株式会社,監修協力:鈴木博之,発行:建築画報社,2008)

| 1960年− | 22:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
川口市庁舎

      
1961年,埼玉県川口市,日建設計工務,現存(撮影:上1枚は1981年、他は2012年)

◆1960年代の公共建築(1)
 上の1枚の写真だけが1981年の撮影。今見れば、いかにもRC打ち放し全盛期の建物といった風情に萌える。奥にはシンボリックな「望楼」も見える。なんといっても折板構造状屋根が印象的であり、学生の頃撮っておいてよかった。
 この望楼は、当初庁舎内に消防署が併設されていたことから設けられたものと言われる。しかし一昨年の東日本大震災で損傷、残念ながら望楼は撤去された。現在は以下にような外観である。

        
 庁舎の第1期工事分が『建築文化』1961年5月号に掲載されていた。総合計画として本館、議事堂、消防署、保健所等などを含む4期工事からなることがそこに記されていた。
 現在道路側からよく見える折板状屋根の建物は第2期工事で建てられた南側の議事堂の棟であり、これは'61年以後に竣工したことになる。北側背後の1期建物とそのポーチ部分で接続している。
           
 左上は屋根部分の拡大。今では全体に陸屋根で蓋がされてしまったようである。 右上画像は1期建物の側面と北側外観。

      
 左上は、内部(第1期建物の玄関部分と2期建物が接する)。右上画像は鋳物のレリーフ。

 また『建築文化』には軟弱地盤への対策について解説されており、懸念されていた沈下について計算値をずっと下回らせることに成功したとある。基礎構造や杭工事において、当時成し得る限りの技術的措置が行われていたことを窺わせている。



| 1960年− | 20:22 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
川口市民会館
       
1966年,埼玉県川口市,日建設計工務,現存(撮影:2012年)

◆1960年代の公共建築(2)
 川口市庁舎の斜め向かいに建つ。ホールについては東日本大震災で被災したため、現在閉館されている。建物に関する資料としては、建設当時に音響特性試験が行われ、その結果が学会報告として残されている(*1)。
 正面の広場には埼玉国体の開催を記念して1967(昭和42)年に置かれた彫刻作品(法元六郎作)が見える。また事務棟外壁には川口らしく鋳物のレリーフ(下画像)が飾られていた。

 市庁舎もそこの市民会館も、'60年代の特徴というべきか、鉄筋コンクリートへの信頼に裏打ちされた、造形の豊かな展開を感じさせる。

                 

          
 私の個人的な思い出としては、ここでドビュッシーの「海」をデ・ブルゴス指揮読響で聴いたこと。確か、さわやかな音響に接したら、うっとうしい風邪も治ったような記憶が・・・
          
 裏側では、そそり立つフライタワーが周囲を圧倒。              


 *1:「川口市民会館ホールの音響特性」(日建設計:船越義房 西沢哲雄 鳥井雅之,ビクター音響:小沢寿郎 尾形武紀)




| 1960年− | 20:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
埼玉県農林会館
         
                1962年,埼玉県さいたま市,清家清,現存(撮影:2012年)


         
 浦和の官庁街の中心、そびえる県庁の脇に、とても見どころの多い建築物がある。設計した清家清はこの建築に空間のフレキシビリティを求めていた。RC造について耐用年数よりも機能的いきづまりが早く来る」(*1)という考え方に立ち、恒久的なコアと、改造しやすいプレキャスト部材による事務空間とに明確に分節した計画を行った。
 そうかと言って清家清は建築の工業化を指向していたというよりは、やはりモダニズムの延長上における建築空間の豊かさを目指していたようである。この建築においても興味深いデザインが多数ちりばめられていた。

      
 上の画像は1階のピロティ。開放的な空間の中に置かれた彫塑的な曲面を持つ壁や地下への階段口が点在する。階段を下りると地下には日本庭園風の飛び石があるらしい(閉じていたので見られなかった)。
         
ピロティから地下のドライエリアを見下ろすとレリーフが。60年代的雰囲気に出会えたようで嬉しい。
     
 裏側から見る。むしろ豊かな表情を持つこちらの立面に圧倒された。(ただしコアシャフトの煉瓦タイルが張り替えられ、当初の表情から変化しているが)
         

         
 西欧モダニズムの語彙と日本的な感覚とが混じり合う建築。60年代の状況が垣間見えるのと同時に、やはりそこに清家清ならではの世界があるとも感じた。


 *1:『新建築』1963年11月号参照





| 1960年− | 21:18 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
埼玉県立浦和図書館


1960年,埼玉県さいたま市,埼玉県土木部建築課(柳 武),現存(撮影:2012年)


 木目がきれいに写り込み、見るからに丹念に作られたこうしたコンクリート打ち放しの建物は、最近ではそのままの姿をとどめる建物が少なくなったせいか、建物を見ただけでなぜか新鮮で感動的な気分にさせられる。それはまた打ち放しコンクリート全盛時を大いに彷彿とさせる。(赤茶色なのは、後に保護用に塗ったカラーの撥水剤と思しい)

 過去を辿れば、県立図書館は1925年に移転した埼玉女子師範学校の校舎を転用して図書館として運用していたのだったが、終戦後になると建物の老朽化は限界に達していた。図書館の改築を求める運動は次第に盛り上がりをみせ、昭和33年にようやく予算が付き悲願の改築が実現する運びとなった経緯がある。

 当初は設計を外部の図書館建築の専門家に委嘱してはとの声も上がったそうであるが、既に試案を重ねていた県建築課が担当することに落ち着いた。当時の県立図書館館長であった上野茂氏は同氏の著書『思い出の図書館』の中で、担当した県土木部建築課の主任技師の柳武氏のことを「図書館職員以上に詳しい知識を持っておられた」(*1)と、評している。

 柳武氏とは一体どのような人物なのか、気になったので調べてみたところ、基本的には県職員としての仕事をまっとうされた方であり、この図書館については特別にエネルギーを注ぐことがかなったようである。自ら「県庁生活の中でも特筆するものでした」(*2)と語っている。いくつかの資料に担当として技師柳氏の名が記されており(*3)、新図書館に対する柳氏の強い熱意の表れが担当者個人名の掲載につながったのではないかと推測される。
 この上野氏の著書中に、柳武氏自身による設計時の回想も収録されているので、いくつか以下に抜粋してみたい。
 「昭和二十年代の埼玉県の営繕工事は、木造による増改築が大部分で、昭和三十年代に入ってからぽつぽつ高等学校などを中心に鉄筋コンクリート造りの建築物が建つようになってきました。このような時期に県立浦和図書館の改築工事は、まさに画期的なことで、我々建築課の設計スタッフもそれなりに大いに張り切ったものでした。 第一回目の設計打ち合せを旧図書館の館長室で行なった時から、図書館側と我々スタッフとの間で呼吸がぴったりと一致しました。これは上野館長の改築に対する熱意がその言葉のはしはしから充分我々に伝わってくるからです。」(*2)
           
 柳氏は設計における平面計画のポイントとして、1.動線の問題―利用者と館内奉仕者の動線の交錯を避け、かつ利用者の入口をはっきり分けたこと、2.事務室をまとめ、また固定的な間仕切りを避けなるべく大部屋としつつ将来対応を図ったことなどを挙げている。
 さらにデザインについても、明治以降の様式建築から脱却し日本古来の素材美を取り入れるよう心掛け、「利用者が落ち着いて閲覧出来るように素材の美をいかし、柱・梁・天井等のコンクリート面は素地のままで仕上げをせず、その他の仕上げ材も素材をそのままいかすよう天井にはハギ・竹をそのまま使用しました。」(*2)と語っている。
     
 現場を担当できた喜びにも触れている。「鉄筋コンクリートの打ち放し(コンクリート素地のままで仕上げをしない)で型枠の木目をいかすのは技術的にも高度なもので、建築担当の鹿島建設には随分と無理な注文をしましたが、現場主任の大島さんが我々の趣旨を充分いかして仕事をしていただきました。」(*2)やはりこの打ち放しコンクリートにはそれなりのこだわりと苦労があったようである。

 一般に名を知られた建築家によるものではなかろうとも、熱意をもって質の高い建築を生み出したことが柳氏の回想から伝わってくる。おそらく他の多くの建築にも同様に込められた思いと苦労があったであろうと思う時、建築とは単なる実用品としての道具を超えたものであり、大切に使い続けねばならないと、つくづく思う。使い捨てはよくない。
 設計者の思いの記録の図書を、まさにその対象たる建物の中で閲覧しつつ、建物を眺めつつ・・・、愉しいひとときであった。


              
 上は、前川國男の埼玉会館(1966年竣工)のエスプラナードからの眺め。

              
 上、これはおまけ。隣にある消防団兼防犯ステーションの建物。70年代のものだろうか、大げさなコンクリートの造形が面白い。裏側の壁も丸窓だらけで結構凝っていて気になる。公共の建物には違いないが、図書館との関係は不明、というかたぶん無いだろう。


   *1:『思い出の図書館』(1978,上野茂編著)P.331 執筆当時の柳氏は住宅都市部県営住宅課長
   *2:同上 P.250〜252
   *3:『埼玉県立図書館の概要』(1961,埼玉県立浦和図書館),『埼玉県立浦和図書館50年誌』(1972,埼玉県立
      浦和図書館)などの資料がある。









| 1960年− | 20:59 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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